原発事故と民主主義
【原発を作るにも十分な議論はされなかった】
市民とは政治的な主体だ。 身の周りの世界が同組織されているかに、自分たちの生活がかかっていると折にふれ自ら言い聞かせる人間だ。使命は、常に、社会における自分たちの運命についても。 もっと理解を深めようと努める。
時に不正に対して憤り自分で何とかしたと思い立って 社会問題に自ら深く関わっていく。 消極性は市民の立場の死を意味するのだ。
(カレルバアン ウオルブレンー 人間を幸福にしない日本というシステム)
民主主義とは何なのか、まだわかっていない、それは別に知識人だけのものだはない、庶民レベルで民主主義が実践されることである
例えば原発でも何かこれが地元でその是非が議論されただろうか?
それがほとんどなかったように見える
原発事故になり庶民でも主張するようになった。
ただ主張したのは原発事故の補償金のことである
補償金をもっとくれということで主張するようになった。
原発が建つときはそれが危険だからとか地元でも議論はされていない
ただ金になるということで批判はしなかった
つまり人間は一番敏感なのは利益になる金になることである
だから避難区域になった南相馬市の小高区の人でも事故後も反対しないし東電であれ批判しない、ただ避難区域の人がみんなそう思っているのかどうかわからない、その人は特殊なのかそれとも原発事故は補償金をもらったから別に悪いものではなかったと見ているのかわからない
ただ極端にしろ民主主義ではそれぞれ主張することはできる
原発はいいものだった、補償金をもらって事故後悪いものではなかった。それで自分に対して原発のことで反対するとそんなこというなと食ってかかってくる。そして自分を責めてくる。
これは意外なのだがそうした主張は原発避難区域で一定数いることは確かである。浪江町でもまわりの田んぼでも草茫々でもその人は電気関係で原発でも働いていたから何か年金のように補償金をもらって良かったと言っていた
何か外から見ると常に原発の被害が放送されるが地元では極端にしろ原発はいいものであり批判しない、だから地元でも原発に反対すると怖いとなる。
ただ民主主義は誰でも意見は言える。だから別に原発はいいものだったとかでも主張できる
第一小高であれ浪江であれ原発はいいものだったというとき外部の者がとやかく言えるだろうか?
何か外部から見ると常に被害者として見ている。でもその地元の人は補償金をもらって良かったとなっている。
だから地元でも原発に事故後も反対できないとなる
すべての人がそうなのかどうかはわからない、でもそれがまた現実でもある。
それを主張するとき原発をもっと増設しろということでも原発は事故になっても十分な補償金が出ますから困ることはありません
それは福島の原発事故でも避難区域の人達が証言してくれますとかなる
でも原発避難区域の人達がみんなそう思っているのかどうかはわからない、ただ私に対して強くそういい私に食ってかかってくる
それは民主主義なのだから一人一人意見を言うことはできる
極端であれできる。それをとめることはできない。
それでもその自分の言っていることに責任を持てるのか
いくら一個人でも小高であれ浪江であれ何か代表して強く主張したのかと感じた。民主主義は何であれ誰であれ意見を言い主張できる
原発はいいものだった
原発には反対するな
補償金をもらってみんな喜んでいる
ただこの喜んでいるのは南相馬市なら小高区であり原町区である。鹿島区とか30キロ圏外は補償金では不満である。それで私は30キロ圏外だから原発に反対できた。もし補償金をもっともらっていたら反対を東電でも批判できなかった。人間はこうして金が利益が第一となり左右される
それはあらゆることでそうでありいくら正論のようなことを言っても利益になる金になることが優先される。
民主主義でも利益が優先される。それはそれで主張できる
金になるからいいじゃないかというこを主張できる
でもこの辺では何か原発に関して議論すらされなかった
だから何故新潟の巻町で原発を拒否できたのか、原発推進派の方が多かったも見るからである。そこでは議論もされた。それにしても反対できたのはどうしてだろうとなる。そこでは民主主義が機能していたからなのか、反対派が多く原発が建てられなかった。全国的に見るとそれは例外的なことである。どうしても利益第一になる、金になるとなれば反対できないのが普通である。
確かなことは原発問題でも民主主義が試されたのである。地方自治の方が何か民主主義でも身近になる。それぞれ住んでいる場所であり原発事故なら住めなくなることにもなったからである
それでギリシャの一万くらいのポリスで民主主義が生まれたことが理解できる。国単位となると大きすぎて身近にならないからである、それくらいだと一票の重みがある。そして責任も自覚する
国家レベルとなると責任も自覚できない。だから原発は言いもものだったと言うことはできる
でも責任は課せられる。狭い範囲だと反対であれ賛成であれ熾烈なものとなり昔だったら戦争にもなる
そもそも戦争が戦国時代であれ起きたのはやはり土地争いとか水の利権とか利益をめぐる争いだった
それは今の時代でも変わらない、血で血を争うのは利益利権をめぐってそうなる。
いずれにしろ民主主義と言っても利益第一主義になる。利益になるとなれば危険は無視される。そのことはあらゆる分野でそうでありカルト教団でも御利益追求しかないことでもわかる、つまり人間は利益になる金になるというとき反対はできなくなる。それは原発は危険だとしても目の前の利益が優先される。これは人間社会に共通している。
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