2025年05月24日

相馬野馬追い始まるー北郷出陣−身分制社会の再現に意味があるのか? 【高齢化などで騎馬数が減少して維持できるのかー野馬追の武具が売られる問題】

相馬野馬追い始まるー北郷出陣−身分制社会の再現に意味があるのか?
【高齢化などで騎馬数が減少して維持できるのかー野馬追の武具が売られる問題】

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鹿島区【北郷】の右田から出陣

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御家とあるのは小高でありここでは海老原氏宅で宇多郷【相馬市】と合流する
小高郷は別なのである。




江戸時代末期における新発田藩の足軽長屋で、藩政当時のままの姿で現存する。当時の下級武士が住んでいた八軒長屋は、歴史的にも貴重な存在です。

無高の郷士も多かった(無高郷士)。郷士まで含めての武士の総数は、薩摩藩では人口の4分の1を占めていたため、これら全てに武士としての扶持を与える事は不可能であった。これらの郷士は、藩に許可されていた大工や内職で生計を立て、中には武士身分のままで上級郷士の小作人になる者もいた。

明治維新後は俸禄を失い没落した城下士に対し、郷士は農地を買い集め地主として成功した者が多く、西南戦争に対しても冷ややかな態度をとる郷士が多かったと言われ


野馬追で誤解しているのは侍が多かったと見えることである。でも野馬追に出る家は北郷(南相馬市鹿島区)だと20軒くらいだろう
そしたらかなり少ないのである、薩摩藩では人口の四分の一というのは多かった、当然扶持が与えられないから農業をするものそれも小作人までいた。職人もいた。実は城わ中心にして上級武士がいてその次に職人などがいてその他に下級武士が足軽などがいた。

つまり身分によって住む場所が違っていたのである。足軽長屋が新発田藩で残っている。それは長屋といっても一部屋であり窮屈である。上級武士は一軒の家を持ち庭を持っていた。その差が大きかった。だから下級武士は町人より貧乏だったともなる。
そこが誤解している。だから下級武士は相当に不満がありそれが明治維新が下級武士中心になり起こした階級闘争だったと言われる所以である。それを如実に示しているのが日本最初の首相の伊藤博文が足軽の出でありそれも足軽の家に養子になりその身分を得た。

足軽という時字のごとく足が軽い雑兵のことである。馬を持たない人達だったのである
馬を持つかどうかで身分差が生まれた。そもそも相馬氏が強かったのはこの地を支配できたのは馬を駆使する騎馬軍団を形成していたからである。それで雲雀が原で馬を使い軍事訓練をしていたのである
他の藩でも馬を持つ者が武士であり馬を持たない者が武士でも足軽とかであり下級武士だった
戦争では馬の威力が大きいからだった。馬を持つ武士が先頭の中心だったからである

モンゴルがあれほど世界帝国にまで拡大したのかそれは日常の生活が羊とともに移動する生活であり馬を羊を追うために使用していた。つまり日常生活の延長として軍隊化しやすかったのである
でもモンゴルの馬は小型なのである。足が地に着くのである。私が全く馬に乗れなくても乗れた。日本の馬は大きくて高いから乗っているだけで怖いのである。それで落馬があり競走馬で慣れた人でも落馬で死んでいる

ともかく江戸時代は身分社会であり生まれた時どういう家に生まれるかでその生涯も決められていた。徒町(かちまち)というとき馬を持たない人たちが足軽など住む場所だった。何か今では車を持たない人は下に見られる。それと似ていた
馬を持つか持たないかの差が大きかった。

馬に乗れば人を下に見て馬に乗った侍は上から見下ろすとなる。それだけで歴然として差が生まれる。だから野馬追は歴史の保存だというとき江戸時代が現実に再現される。ということは身分制社会が現実に復活する
実際に侍の家であり旗指しものでも鎧でも先祖代々伝いたものが使用される

そのことで政経東北で武具や馬具が売られることで問題が起きた

中ノ郷騎馬会は住民から不要になった武具や馬具の回収を進めている。出場者がいあなくなった家に眠っている甲冑など約50点をを集め16日に同市の太田神社に並べて初のオークションを開く
近年高齢化などで野馬追に出る騎馬数が減り祖父の代で途切れた家などがありその処分のためであった

骨董店の人が何か金目のものがあるかと回っている。こうしたものはかなり価値があるから高く売れる
ここでも少子高齢化問題が影響している。去年は350騎とかなり500騎出ていた時ではかなり差がありさらに御行列にでても
神旗争奪戦にはさらにでる人が少なく迫力に欠けた。なぜなら神旗争奪戦は馬に乗る訓練していないとできない
危険だからできない、だからこうして野馬追は維持できるのかとなる
市の方で20万援助しても一年間馬を駆っていることは費用もかかる
すると規模が縮小して祭りとしての活気がなくなる。その大きな要因が侍の出の家でないと野馬追いには出れないことにある
すると限られた人になりますます出る人が減少してゆき魅力がなくなる

だから歴史の保存という時それが維持できなくなる。果たして江戸時代の厳しい身分社会を再現保存することに意味あるのかとなる。現実に【御家】の旗印は小高の家ののものでありもう一つも他から移った侍の家の旗印だったのである
本来はその出る郷が決まっていて変えられない、でも原発事故で小高に住めなくなり鹿島に移った
それは他でも起きているからそういう点でも歴史が保存できなくなっているのである

サムライフェスタのように誰でも参加できるものなら違っている
ただ馬に乗るとなると費用も手間もかかる、だから出る方になると何のメリットがあるのかともなる
馬に乗り昔の侍のように庶民を下に見て威張れるということで出たいという人もいる
それだけの労力であれ金を使うからだとなる。

野馬追でも歴史の保存は無理になるのではないか、またそれを続ける意味があるのかともなる。
江戸時代の厳しい身分社会を再現して維持することが意味があるのかとなる
今になればそれはただ昔を偲ぶ楽しむ娯楽にもなる。京都の時代祭りなどはそうだし歴史の保存というより見世物であり楽しむというだけである。

屋根に雪足軽長屋のあわれかな寒さ答えぬ新潟の冬に

これは会津藩でも下級武士は炭さえ使えぬ貧乏な下級武士が存在した。会津なら相当に寒いのである、どうして暖房が無くてしのげるのかとなる。また薪が買えなくて暖房できないで苦しむ人たちがいた。つまり江戸時代は電気もないし一般的に相当な貧乏だったのである。歴史の保存という時この足軽長屋のようなものは昔を偲ぶのに効果的だとなる。

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