【相馬藩内の姓からたどる郷土の歴史】
隣の嫁様が双葉の細谷の出身だったー原発のすぐ近くだった
隣の嫁が双葉町の細谷の出身だった。20くらいの息子がいるから40から50歳くらいなのか
地図を見たら原発のすぐ近くだった。それには驚いた
双葉町は私の父親が酒屋の丁稚で働いていた場所である
葛尾村から出てきて働いた。そこから暖簾分けしてこの地に来た
それは戦前のことであった。でも父親は早く死んだので話を直接聞けなかった
だからどういう家に生まれて育ったのかわからない、明治生まれであり読み書きはできていた
それをどこで習ったのかわからない、その頃山村い学校があったのかなかったかもしれない
でも良く筆で字を書いていた。字を書けなければ丁稚とかでできない、おしんというドラマでは丁稚に勤めた所で字を覚えていた
その女の子は貧農の小作であり貧乏だから子供の時でも働かさせられたのである
明治生まれの女性で母の実家の継母も字が読めず書けず苦労していた、なぜなら字を書ける人に頼まなければならなかったからである、だから結構字を書けない人が明治時代にいたし江戸時代でもいたのである
細谷という地域は原発のすぐ近くであり双葉という地域は相馬藩の境でもあった。小良ヶ浜(おらが)浜というのは俺らの浜ということであり相馬藩内でありそれを主張したのでその名がついた。それは港ではない小舟を砂浜にあげて漁をしていたような場所である
ただ相馬藩の境ということで意識された。夜ノ森とは余の森のことでありこの余とは相馬藩の殿様のことであり余の森と名づけられたのである。ともかく人を知る時どういう場所に生まれ育ったのかを知る、でも相馬藩内だとなんとか地理がわかるが
遠くになるとそもそも地理がわからなくなるので理解しにくくなる。
その場所でも地歴を知らないと空間軸と時間軸で知らないと理解できない、でも原発事故は世界的にも有名になったから
私は双葉町の生まれで原発のすぐ近くに住んでいましたとなると世界でも理解されるとなった
双葉町の近くの常磐線の末続村駅がありそこの墓地を見たら新妻の姓の墓が8割くらいあった
新妻一族の村だったのである。こうして一つの姓の一族が住むことがある。葛尾村は松本姓が三分の一くらいてそれは長野県信州の方から移住してきた人達だった。南相馬市鹿島区だと南朝の霊山が炎上して落ち延びた只野氏の姓の人が50軒くらいあるから只野氏一族の村だったとなる。でも町が大きくなるといろいろな人が混じり姓も多様化して由来がわからなくなる
それと江戸時代は侍しか姓を持てなかった。それで姓はもらうことは苗字帯刀となり特別な侍の身分を与えられたことになる
江戸時代には姓は庶民はなかったのである、姓からたどる歴史がある。でも相馬氏にこの辺は支配されてそれがわかりにくい、なぜなら相馬市は千葉県の方から移って来た人達だからである
相馬藩内では佐藤氏一族が相馬氏が来る前に大きな勢力を持っていた。その佐藤氏は義経の従者であり有名である
その佐藤氏は福島市の方から相馬市の方へ移住して勢力を広げた。それで塩手山の下に二軒並んでいるのが佐藤氏だった
それはかなり古い家である、また磯部に佐藤氏の中世の館がありその佐藤氏が今の道の駅の近くの鬼越館に移動した
それは津波を予知したのかただ荒波で被害があり移動した。相馬市はもともと佐藤氏が支配していた。
佐藤というと普通にある多い姓だがその由来はそれぞれである。
月の輪のわたし*を越て、瀬の上*と云宿に出づ。佐藤庄司*が旧跡は、左の山際一里半計に有*。飯塚の里鯖野*と聞て、尋たずね行に、丸山と云に尋あたる*。是庄司が旧館也*。麓に大手の跡など、人の教ゆるにまかせて泪を落
佐藤庄司:「 庄司」は、荘園領主の代理人として荘園を管理する職のことで人名ではない。ここでは、信夫郡・伊達郡の庄司だった佐藤元治という個人を指している。佐藤元治は藤原秀衡の家臣で、佐藤継信(次信)・忠信の父。
庄司とは荘園のことでありそれが地名化したのは各地にある。庄司渕というのもそうである。庄司という姓の人は相馬藩内にいる
姓で注目するのは南相馬市の鹿島区の岩松氏である、鎌倉から鹿島区の館に住み飯館村の方まで支配した
でもその家来の裏切りにあいその子供まで惨殺されたのでそれが歴史として残っている
それが歴史の事実という時岩松の姓は相馬藩内にはない、つまりその跡が絶たれたからである。つまりこれが歴史の厳粛な事実を示している、何かこの悲劇は消えないのである。
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