2025年03月10日

道の辺の木槿は馬に食われけり 芭蕉の句の評価 【写生俳句であり説明感情を抜きにしたもの】


道の辺の木槿は馬に食われけり 芭蕉の句の評価

【写生俳句であり説明感情を抜きにしたもの】


道の辺の木槿は馬に食われけり 芭蕉

蠟梅の花食う鳥や今日も来ぬ (自作)


この句の解釈はいろいろある。でもこれは正岡子規の写生の句ではないか?ただ子規自体が酷評している
何かの教訓を含んでいる訳でも名だろう、ただありのままを事実を写生したまでだとなる
それが返って効果的でありその解釈は各自に任せるとなる、それが写生俳句である

何故この句に私が注目したかというとこれと似たものを見たからである。
私の庭に毎日ヒヨドリが蠟梅の花を食べにくる、冬の時期に餌がないためなのか、追い払っても執拗に来る
そもそも蠟梅の花を食べて栄養になるのかとも見る、何か実ならば栄養になると見る
でも蠟梅の花を食べて栄養になるのかと見る。

ともかくこの句に何か他意はないだろう、ただ驚いて見たままを句にしたとなる
馬が木槿を食べるのかそれをそのまま句にしただけだろう
解釈すれば馬にとおては花も餌にしか見えないとなる。空腹であれば原の足しになれば食べるとなる
花が栄養になるかなど考えない、でも何でも食べるというのもでもない、本能的に食べられると判断して食べた
何らか動物は食べていいものと行けないものを見分ける


空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。

これを感じる。鳥はなぜ生きていられるのか何を食べて生きて飛ぶことができるのか、そのエネルギーが得られるのかとなる
白鳥も去ったが白鳥も飛ぶのに相当なエネルギーが必要だと見る、


ハクチョウは水草の葉、茎、地下茎、根、を好んで食べ、草食性と思われがちですが、実は雑食性です。時には昆虫、貝、甲殻類も食べるのです。

白鳥は大きいから飛ぶのにも相当エネルギーが必要に見える。だからこれも自然の不思議である

【天の父は鳥を養ってくださる】人間ならなおさらそうではないかとなる。でも人間は絶えず食料でも得られるかと不安が絶えないのである。でも自然界で動物でも鳥でもそういう心配はしないと見る。人間だけが異常に貯えていても安心がなく不安なのである。

いずにしろ【道の辺の木槿は馬に食われけり】は何か驚いて見て句になった。まず木槿の花を馬が食べるのかとなる
それh私がヒヨドリが蠟梅の花を食べるのかと見たのと似ている、別に動物が花より団子である、花の美より腹の足しになるものを優先する。それだけのことだが人間が見ればそれが不思議に見える
そもそも自然のことを理解することは何でも難しい、何か理屈をつけてもわからないことがある
要するにだからこそ写生俳句が生まれた。ありのままを理屈と感情抜きに句にするのである
ただこれを死期が評価しなかったのは解せないとなる





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