2025年01月20日

養老孟司が「自衛隊のいる後ろめたさ」がなくなるのは危険だと 警鐘するワケ…中国に見る、規範を重視する伝統の重要さ


養老孟司が「自衛隊のいる後ろめたさ」がなくなるのは危険だと
警鐘するワケ…中国に見る、規範を重視する伝統の重要さ

●兵は不祥の器にして、君子の器にあらず

夫(そ)れ兵は不祥(ふしょう)の器、物或(ある)いはこれを悪(にく)む、故(ゆえ)に有道者(ゆうどうしゃ)は処(お)らず。君子、居れば則(すなわ)ち左を貴(たっと)び、兵を用うれば則ち右を貴ぶ。兵は不祥の器にして、君子の器にあらず。已(や)むを得ずしてこれを用うれば、恬惔(てんたん)なるを上なす。勝ちて而(しか)も美ならず、而るにこれを美とする者は、これ人を殺すを楽しむなり。夫れ人を殺すを楽しむ者は、則ち以(も)って志を天下に得べからず。
軍隊は不吉な道具だ。物はこれを嫌うかもしれない。だから、道を修めた者はそういう場所にいない。

軍隊は災いの組織であって、補佐官のための組織ではないので、やむを得ずこれを使うなら、最低限にあっさりと使うのがよい。
勝ったとしても誇らしくはない。これを誇れば殺人を楽しんだことになる。こういう連中は人の上に立ってはいけない。

養老孟司氏が言うのはこのことになる。兵士が軍隊が全面的に出て来た時は戦争の時代である。戦争の時一番威張っていたのは軍人である。軍人が讃えられた、でも軍人は戦争の時人を殺す時必要になる。消極的なものとしてやむえざるものとしてあるべきということになる
だから軍人が讃えれる時危険になる、でも未だに上等兵だとか二等兵だとか軍隊の位を墓に記しているのには違和感を感じる
その時代なら誇りとなっていたし社会でその価値を認めていた
でも今になると何か違和感をもつ。軍人を讃えるものと見るからである。

君子の器にあらず。已(や)むを得ずしてこれを用うれば、恬惔(てんたん)なるを上なす。勝ちて而(しか)も美ならず、而るにこれを美とする者は、これ人を殺すを楽しむなり

だから戦争とか軍人を賛美することに抵抗がある。それを全否定できなくても消極的なものとしてやむをえない範囲に留めるのがいいとなる。そうなると日本の自衛隊はそういうものであり老子の思想にかなっている。
老子の思想は三国志の熾烈な権力闘争があったが老子の思想は何か宗教的でありキリスト教にも通じるのである
柔和なものが地を継ぐであろうといとき老子も剛より柔弱なものが強いとしている。剛は強いようで弱いとなる

キリストの柔和なものが地を継ぐだろうというのもそうである
兵士とか軍隊はなるべくならあってはならないものなのである。
ただそうなると日本は他国に攻められたらどうするのかとなる
無抵抗主義になりただ殺されるのかとなる。でもむしろ軍備を強化すれば他国も警戒する。だから本来は兵は不必要なものであり積極的軍備を拡大することは危険だとなる、剣を持つ者は剣で滅びるにも通じる。

●剣を持つ者は剣で滅びる

ともかく剣を持つ者は剣で滅び核を持つ者は核で滅びる、これは確かである。だから第三次世界大戦になったら確実に人類は滅びる。それがロシア中国アメリカの大国の衝突でなる。その時日本も巻き込まれる。老子の小国寡民というとき日本が江戸時代は世界と交わらない鎖国で戦争のない300年を維持した

でも世界に開国して戦争が3度あり太平洋戦争では3百万人が死んだのである。世界でも何千万人も死んだとなる、だからグローバル化というもものが本当にいいものであるのか疑問になる
ただ小国寡民というとき村のようなものではなく日本一国で小国寡民なのである。それは老子が生きた時代は一億人の人口だった
だからそんな時代でも中国は人口が多いし大国となっていたのである

何故世界でこれほど紛争があり戦争がなくならないのか、世界で人が交わる時グローバル化してかえってそれが世界大戦に発展して何千万人も死んだ。それは何故なのかとなる。世界の人が交わることが悪いものではない、でも一方で世界の人が交わることは対立も激化して戦争になっっということである。

グローバル化した世界は悪いとは見えない、でも貿易戦争にもなりそれが本当の戦争にも発展する。日本の太平洋戦争の切っ掛けとなったのも石油が輸入できない、アメリカの経済封鎖が原因だったともしているのもそうである。また戦争でも燃料になる石油がなく負けたとも言われる。特攻隊のゼロ戦でも片道の燃料しかなく帰ることのできないものとして突撃した
つまり石油がやはり重要なものだったのである

今でも常にアメリカに逆らうものは経済封鎖されて苦しくなる
本当に殺し合う戦争ん前に経済的に窮地に追い込み疲弊させる、そして耐えることができなくなり本当の殺し合いの戦争になる。
戦争は殺し合いの前に経済戦争がある。だからグローバル経済でも必ず経済戦争貿易戦争があり本当の戦争になる。平和な自由貿易などありえないのである。だから今度は中国がアメリカによって経済で締め付けられて不況になり苦しむ、それが米中の戦争にも発展するから怖いのである。

●老子の思想とキリスト教は似ている

いずれにしろ老子の思想とキリストの思想には共通したものがある。治めずして治めよとか聖書なら緑子に治めさせよというときもそうである。何の力もないものに欲のないものに治めよというのも共通しているのである。そこに平和の思想があった。
要するに老子の思想は仏教でも東洋の思想であり共通している
キリスト教もアジアのもであり欧米とは違う、だから欧米のキリスト教は本来のキリスト教ではないというときそうなる
そのオリジンは東洋にあったとなる。

野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。

働きもせず、紡ぎもしません

これも無為自然の思想であり老子の思想と似ているのである
何か西欧的働くことを宗教の根本としたものと違っている
それでウェーバーの修道院から他者に尽くすものとして資本主義が始まったというときこうした思想とは反するものでありだから欧米のキリスト教は本来のキリスト教ではないと指摘する人がいる、内村鑑三などがそうである。東洋的思想だとなる。
何か欧米だと他者に尽くすことが強制される慈善活動でもそうである。寄付が強制される、でも内村鑑三などははそうした慈善活動は消極的であれとしているのである。
そうしたことより心の内面を重視した。確かになざ禅宗では何もせず座禅しているのかそういうことは否定される他者のために働けとなる。その相違が大きいものとなる。
ただ禅宗にしても一日作(な)さざれば一日食はずという思想がある、でもそこには他者に尽くすことではない、他者に頼らず自分のことは自分で賄うべしという思想である。

その相違がかなり大きい、それは資本主義が他者に尽くすための労働として発展したとなればそうである。労働の原動力が根本的に違っているとなるからである。でも実際は資本主義は今や他者に尽くすとかではない極わずかの人たちが莫大な富を手にするものとなった、かえって他者を働かせて暴利を得るものとなった。
だから他者に尽くすということがかえって他者を利用して働かせて暴利を貪るとなった皮肉がある。そこに矛盾があり資本主義が崩壊するともなる。それはキリスト教の理解が間違ていたからだともなる、欧米流のキリスト教は本来のキリスト教ではないといううのはそのことになる





posted by 天華 at 20:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層
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