2025年01月10日

時間とともにチャンス〔機会〕も失われる 【何かをする時間が失い気づくー無常迅速を知れ】


時間とともにチャンス〔機会〕も失われる
【何かをする時間が失い気づくー無常迅速を知れ】

空間軸と時間軸で考えてきたが人間の盲点は時間軸で起きることがわかりにくいと考察して来た
何かのチャンス機会は空間軸でも起きる。でも時間軸でもチャンスが関係している。それがわかるのは老人になると否が応でも思い知らされる

なぜなら別に空間軸なら老人になっても旅行でもできる、でも時間を戻すことはできない、子供時代に戻ることもできないし青春時代にも戻ることはできない、何か共にする時間も失う、家族を考えるとそれは時間を共有した人であり別に血縁関係でなくても長く一緒に暮らしていたら家族になる

動物でも子供が親がいなくなったとき犬でも猫の親になったりとか他にもある。それはそのとき子供の時親代わりになったからである。では実の猫の親がいたとしても親と認識できなくなる
子供の時一緒にいることが家族になったとなる。
ともかくその時一時期でも時間を共有したからそうなった

でも人間の時間は限られている、友達になりやすいのは若い時でありその時利害関係で結ばれるのではなく何か一つの目的とかありそれを目指して共同するということがある
ただその時利害が入ってくると不純なものになる。それで社会人になると利害で結ばれるから学生時代とは違うとなり友情とか育まれないとなる。利害と関係ない一時期がありそこで友情も育まれる
それも一時期であり短いのである。学生時代は社会人として生活するよりずっと長いからである。

人間の盲点は時間を機会をチャンスを軽く見ることである。時間などいくらでもある。それより金が欲しいとなるのが普通である。
金があればいろいろなことができる、金がなくてできない、本を買って読みたいとしても金がかかる・・・そういうことがきりなくある。でも時間のことを考えないのである
老人になると金があっても何かする時間がないとなる。そして何かする時間が無くなりそこで失われた時間に貴重さを知る

求道とかは若い内にするものでありその若い時期も短く失われる
だから若い内神を知れとなる。その時期を失うと神を知ることができなくなることは怖い、ともかく最も失いやすいのが時間だとなる
何かスキルを身に着けるのにも時間がかかる、だから前は大工になるには親方に弟子入するのに18才では遅いとなっていたのである。若い内でないとスキルも身に着かない、鉄は熱い内に打てとなる

老人になりかつての同級生とかあって話しても何か噛み合わなくなる。それは空間が同じ地域に生きても別々の時間を生きていたからそうなる。仕事も多様だからその人が何をしてきたのかも理解できなくなる。それは空間も確かに関係しているけど何かを共にするとかの時間が失われたのである。

それは結婚でも時間の作用が大きい、共に生活する時間があって夫婦になる。そして結婚というときその人が性格がどうのとか様々な見方があっても大事なのは出会う機会だったとなる。そのチャンスは若い時期でありその時期を失うと後はなかなか出会うということもなくなる。

それは空間軸で近くにいるとかが関係しているのではなく時間軸が関係している、いくら近くても若い時期に会わなければ結婚にはならない、別に遠くても今なら特に出会い外国人で結婚しているからである。むしろその時期に出会うことが大事なのである
確かに空間軸が関係しているが時間軸の方が重要だとなる

青春とか若い時期は短いからである。それで親は娘の婚期に煩いのである。たちまち美貌も失うからである。
人間に与えられた時間は短い、青春でもたちまちすぎる。あっという間でもある、それとともに何かをする時間も失う
70以上になるとスマホも操作するのも覚えるのも大変だとなる

それで時流に遅れる、情報社会になったとき新聞テレビはオールドメデアとされるからである。私自身はたまたま引きこもりで時間がありワープロ時代から通信機能がついていたのでパソコン通信していたのである、それでも40以上くらいでありその時ひろゆきは2チャネルを主催したように20代の人がはじめていたのである。

今はすでに50以上になっているから時間が過ぎるのは早いのである、。今や70以上になれば死が目の前になっている、もはや何する時間もないとなる。つまり人と出会うというよりさよならだけが人生だとなる。もはや死んでゆき永遠に会わないというのが非情な現実なのである
だからこそ無常迅速というときそれは何かをする時間が消失する

神仏であれ求めるなら若い時期だとなる。その他のことでもいかに時間が大事か老人になると思い知らされる、なぜなら時間は戻すことができないからである。不思議なのは空間なら老人でももう一度行くことができる、でもタイムマシンに乗って時間をもどすことはできない、同じ場所に行ってももうそこで時間を共有することはなくなったのである。
だから歴史がわかりにくいのは時間軸で理解できないからである

ローマ帝国が作られた場に今でも立つことができる、でも時間軸で起きたことを理解することは至難になる。2000年前に起きたことを理解することは本当に難しい、人間は十年前でも起きたことでもあいまいになり忘れるからである。そして新しい事件が次々に起きてそれに心を奪われて前のことを十年前でも十年一昔というように忘れるのである

だから私がプログであれホームページであれ始めたのは25年前とかなる。それで自分で書いたもの読み返してこんなこと書いていたのかと自分で感心しているのも不思議なのである
つまり人間はこうして文章に書き記録しているからまた自分の書いたことでも思い出して確認できる。そうでなければやはり自分自身の書いたものでも忘れるのである。




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