冬の日に原町【太田】の墓地を見て小高の大悲山石仏をを見る
【冬椿、冬の日、冬田、冬の暮。。。】
白旗神社(しらはたじんじゃ)は、関東地方・東北地方・中部地方に分布する神社である。白幡神社・白籏神社とも表記される。
多くは源頼朝を主祭神とするが、他に源義家・源義経などの源氏の武将、源氏の氏神である八幡神を主祭神とするものも多い。社名は源氏の旗である白旗に因むものである。
冬田中社一つや何語る
冬椿五体の石仏黙すかな
松一本根付きて太く頼もしや倉も二つや冬の日暮れぬ
【墓地】
墓地一つ尋ねてあわれ年の暮若く幼く死ぬ人のあり
冬の暮墓地を尋ねてあわれかな死者もの言わず何語るらむ
戒名に国を支ゆと農の字や誇りとあれや時は移りぬ
【小高】
小高城石段踏みて我が上る冬の日静か椿咲くかな
この地にそ巨杉根を張り石仏の五体黙しぬ冬の暮かな
この地にそ巨杉二本の根を張りて石仏動ぜず冬の暮かな
老人の何を語るや日短かき間もなく死して語らざるかな
冬の墓地
幼くも若くも死すや
その命尽くさず死にぬ
生きたしと生きるもならじ
その無念墓の語るかな
冬の日さして静か
短き日は暮れむ
冬の暮の街道
小高より浪江に行きぬ
浜街道や古き碑三つ
何を語るやあわれ
菊も枯れなむ
日短く暮れんとするも
我が引き返して帰るかな
原町の北原から太田神社のほうに行く道に墓地がある。大きな墓地ではない、幼く若く死ぬ人が多かった、特に幼児の死亡が多かった。医療が発達しないのでそうなった。今は幼児で死ぬ人は稀だろう。そういう時代が動物のように子だくさんでないと生き残る人が少ない、それは自然の摂理だった。だから昔は食べ物すらないのに子だくさんになっていた。つまりその中で丈夫な子が生き延びればいいとなる。
戒名に立国院興農欽郎
「欽」は、「つつしむ」や「からだをかたくとじてつつしむ」、「かしこまる」
これは戦前の人でありこういうことがあった。この意は明確である。農民であり国を担うという固持がある。興とは農を興す意味である。これは何か意味が分かりやすい。他の戒名は意味がわかりにくいのである。つまり戒名を見ただけではその人のことがほとんどわからないのである。そうなると何を後世に伝えるのか不明になる。
ともかく人間とは何かを語る、墓でも何かを語る、でも何を語るのか明確ではない、老人は昔を語る、その生きた人生を語る
人間とは語ることに特徴がある、動物は語ることがないからである、語ることが歴史であるーhistory-物語なのである
ただ墓からその物語を知ることは難しい、戒名くらいではその人がなにをいきたかなどわからないからである。
ただ人間は老人になるとわかる結局その人が何を語るかが人生だったともなる。それもその語る時間すら消失してゆく、短い碑はすぐに暮れてゆくのである。それだけ人間の一生もはかない
わずかのことを語り死んでゆくし何かそのことでも忘れられるのである。ともかく何かを語りそれが語られ続ける人は本当にまれである。死んだらそこに記されるのは何なのか年齢くらいなのである。語られるとしても数行で終わりなのである。
小高は一軒スーパーのような店がある、そこには人が入っていた
でも年配の人が多い、小学校も中学校も閉鎖している。だから問題は若い人とか子供がいないのだから後継ぎもなくなる。
そしたら街を維持できるのかとなる、それは空家だらけになり空地化してゆくのは私の周りでもそうであり全国的にもそうである
それで原町であれ鹿島であれ相馬市であれ原発避難区域から移住した人が多い、それで集約化しているから街が維持できるともなる。とても原発避難区域が復興できるのはむずかしいとみる
次代を担う子供がいないからである。自分の周りで街内に住んでいても子供が見かけないからである。
だから集約化して住み街を維持する他なくなるかもしれない。
いずれにしろ今年も終わりである、浪江の方には行けなかった
また夜に転んだから危険だった。自転車は夜は本当に危険である
4回くらい堀に落ちたり死ぬこともあった、でもすぐ暗くなるので困るのである。遠くには行きずらいのである
試しに住んでくださいとなる。なかなか定着するとなるとむずかしい、でもこういうときはよそ者でも歓迎される、でも若い人になる。老人が移住しても負担になるからだる。
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