私の家族が語る明治以降の歴史
【それぞれの家族に歴史である】
●明治からの私の家族の歴史
父親 葛尾村生まれで双葉で丁稚奉公
母親 原町紡績で糸取り―後に東京で女中
姉 従軍看護婦ー役所の保健婦
兄 集団就職―交通事故死
私 東京の三流私立大学卒―引きこもり、放浪
自分の家族は何か明治からの歴史を語る。父親が葛尾村生まれで双葉の酒屋丁稚奉公に出たというのも明治は丁稚奉公が江戸時代からつづいていたのである。
暖簾分けして酒屋をこの地で開いた。その土地が低い場所であり水害で二回被害にあった、一回目は小学生の時であり家が壊滅状態のようになった。トタン屋根の平屋で二回が逃げることができなかった。近くの旅館に逃げた
それで二階のある家を作ることを切望して早い時期に1967年頃作った。それは父親が死んだあとであり姉と母が建てたのである。女所帯でも立てることができた、気丈夫な姉がいて建てられたとなる。その時大工の賃金が相当に安かった、だから当時400万で建てたのは安かった、今なら3000万とかかかったであろう
その頃から急に大工の賃金でも何倍にも上がったからである。
そして姉は同級生ででもキコリの橲原の同級生から木材を買ったと言って自慢していた。姉の歴史は従軍看護婦で今のシンガポールの向かい側のマレーシアのジョホールバルで働いた
そこでの4年間は地獄であり戦争が負けてジャングルに逃げて食べるものもなく苦しんだ。
戦争経験した人が団塊の世代の親であり戦争は身近であった
母は原町紡績で十年間働いた。それが辛いことだとも見たが現金収入になるということで家計の足しになり喜ばれた
ただ母は継母に育てられて苦しんだ。ともかく明治以降の産業は生糸を作ることであり養蚕が盛んであった。だから今でも二階で養蚕していたから兜作りの家が多いのである。
日本を支えたのは養蚕だったのである、だから後ろの畑には桑がありまた麦も作られていた。子供のころはみんな麦御飯だったのである。
そして私の父親違いの兄は私の家で5年間住んだが母の実家で暮らして集団就職で静岡の方に行った。その頃クラスで集団就職する人が多かった。だからこれも歴史だった。その後兄は交通事故で40才で死んだのである
何か私の家族を見たら明治以降でもその後でもそれはみんながかかわる歴史だった。私の家族が特殊なのではなくみんながそうだったのである。ただ水害はみんなが経験したとっはならない、
その後も水害が床上浸水があったが河川改修して川幅を広くして土手を高くして水害にはなっていない
●団塊の世代は高度成長時代を経験する
それぞれの家族をみれば様々な歴史があり成り立つ、歴史は何か国の歴史となると大きすぎてわかりにくいが実感しにくいが家族だと身近になるから実感する。でもそれが全体の歴史にもなる
姉の戦争経験はみんなが経験したことだからである。
何か歴史というとき祖父母までは現実に直接接しているから身近である。父親が明治生まれだとなり明治まではまだ身近だともなる。
私の歴史となると引きこもりとなるがこれも団塊の世代ではありえなかった。みんな会社に就職して企業戦士として働き高度成長時代を築いたからである。何か小さな店であり小さな工場であれみんな成功する割合が大きかった。だからしょぼい店でも品物を置くだけで売れたとなる。たまたま角にあったから店も繁盛した。何故ならその時車がない時代だったからである。大概歩いて買い物していたからである。 道も舗装されていなかったからである
私の家族に商才などなかったが運があり繁盛したとなる
ただその頃は高度成長時代はみんな繁盛して成功する割合が高かったのである。
ともかく家族でもみんな死んで時間が過ぎて行けばそれが歴史となる。それぞれの家族に歴史がある。それは時代を反映していたのである。引きこもりとなると高度成長時代にはなかった
だから私は引きこもりだったというとき特殊だったとなるのである。ところが引きこもりが百万単位でいるとか信じられない時代になっている。車がない自分が会う人は引きこもりと障害者というのもやはり車を持たないということは今の時代では劣った人だとなってしまうのである。
それは侍の時代は馬に乗る人でありそこでただ歩く人は徒歩の人は一段身分が低い人達であった。それで馬を持たない人たちは
御徒町〔おかち〕に住んでいた
また足軽であり足が軽いということでそうなった。馬に乗れないからそうなったのである。
野馬追でも馬上から庶民を見下ろすから明らかに馬に乗る人と乗らない人は身分差があった。
ともかく家族でも死んで時間過ぎると歴史となりふりかえる
歴史として刻まれたものとなる。それはそれぞれの家族でもそうでありそれが全体の歴史にも通じている
父親が明治生まれであり母親は大正生まれであり姉もそうである
明治は遠いにしても大正は身近になる。内村鑑三は大正時代まで生きていた。江戸時代に生まれ大正時代まで生きていたのである。つまり江戸時代ー明治ー大正と生きたのである
この三時代を生きたことはやはり激動の時代であり今とは違いその時代の変化を生きたとなり違っている
●歴史に刻まれる本当の価値
ともかく歴史を刻んでゆくのは人間である。歴史の功績というというとき偉人だけではない庶民でも歴史を刻んでいる。それは無視できないのである。ただ戦争となると300百万人も死んだとしてそれが何を意味していたのかそれが功績として語られないとすると死んだ人は浮かばれないとなる。
ただ歴史に残るものが真に価値があったものとされる。それは長い時間の中で判定される。時代でいくら脚光浴びても時間が過ぎると語られなくなることはいくらでもある。
もし十年後であれ20年後でもさらに50年後でも語られればその人は価値があったとなる。ただその時代を一世風靡したとしてもはかなく消えて忘れられのも多い。中国で青史に残ることを望んだのもわかる
あれだけの歴史が長ければそこで真に価値あものが何かを明らかにされるからである。長い時間の尺度で見るということである。
それが日本には欠けているとなる。国家百年の大計とかもなく
ただ目の前のことに追われているだけだとなる
今年も終わるがやはり過去振り返り未来を望む、未来は過去を振り返ってあるともなる。だから歴史を知ることは大事である。
何か現代であれ太平洋戦争であれ元は明治時代の薩摩長州の横暴な政治の結果だった見る人もいる。
吉田松陰の「征韓論」がありそれが満洲進出となりアメリカとの戦争へと発展したともなる
それは西郷隆盛にもあった。つまり明治にすでに太平洋戦争の下地が作られていたとなる、何故なら歴史は連続したものだからである。明治にすでに太平洋戦争の種がまかれていたとなる
いずれにしろ明治維新は薩摩長州の権力奪取であり別に幕府で大政奉還したというとき武力で奪う必要もなかったのである。
何かそこに歴史観の過ちがあったともなる。
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