2024年11月11日

原発事故の責任は誰にあったのか? 【責任は必ず誰かかが取らされるのがこの世ー現代は金が責任になる】


原発事故の責任は誰にあったのか?
【責任は必ず誰かかが取らされるのがこの世ー現代は金が責任になる】

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国民は官僚が悪いといい、官僚は軍部が悪いといい、軍部は政治家が悪いといい、政治家は国民が悪いといって元に戻ってしまい、責任の所在が消えてしまう。そのうちに「空気が悪い」「時代が悪い」ということになる。総・無責任体制と表現できるだろう
なぜ日本はここまで「衰退」したのか…意外と知らない、多くの人が取り憑かれた「病理の正体」

●責任の範囲が広すぎる問題―責任の大小を明確にする

東電が悪い、政府が悪い、東京都民が悪い、福島県民が悪い、双葉であれ大熊であれ原発を受け入れた自治体が悪い、科学者が悪いー国民が原発に賛成だから悪い・・・その時代の空気であり空気が悪い

こうして誰も責任をとらなくなる。

例えば東京都民が悪い、福島県民が悪いとかいうけどその範囲が広すぎるのである。国民が悪いとなればさらに範囲が広すぎる
それは結局時代が悪いとかなり誰も責任をとらない、それは太平洋戦争の日本と似ている、誰が責任者なのかわからなくなる。
責任のなすりつけになる
ただ人間社会は必ず責任から逃れられないようにできている
誰かが責任を取らされる

300百万人戦争で死んだ!

それが責任だった、だから責任は空恐ろしいものとなる。
原発事故でもそうである。故郷に住めなくなったということが最大の責任として地元の人たちがとらされた
ただそれは避難区域になったところであり南相馬市なら小高区がそうである、つまり原発からの距離に比例して責任をとらされたのである。ただ一方で補償金が多額でもあり返って良かったという人までいる、そういう人は別に東電を恨んだりしないのである。

ある人は補償金でいい車を買った遊んでいたとかある。小高から原町に移り住んだ、でも病気になり仙台市に息子が住むようないなりそこで移り入院した。だからこうして補償金をもらっても浪費した人もあるし苦しいことになった人もいる
その人は別に東電を恨んでもいなかったがいろいろ苦しいことがあれば恨むことにもなる。
むしろ恨まないことがいいとはならない。原発は悪いものではないとなり今はどうしても安上がりの電気が必要だとして原発推進になっている。躍進した国民民主が自民党より原発推進だったのには驚いた。結局エネルギーが不可欠だからそうなった。でもそのリスクが大きすぎるのである

●原発の距離に比例して責任が課せられていた

いずれにしろ誰が責任があったかとなると全部では時代のためだとかしたらすべてあいまいになる。確かなことは責任には優劣がある。福島県民が悪いというが福島県でも広いのだから全部が悪いとならないし第一浜通リにしても被害の濃淡がありそれに比例して補償金が払われた、南相馬市では30キロ離れた鹿島区隣の原町区と比べると三分の一だった。この差は大きかったし鹿島区は医療費でも半年くらいしか無料でなかった。原町区だと10年くらい無料だったし高速も無料だったのである
これが納得いかなかったのである。放射線量は山側が高かったが海側は浪江でも低かったのである。つまり放射線量は一律ではなかったのである。でも補償金は距離で区切られたのである

そもそもどうして原発が作られたのかわからない。国が指導して県がまた地元の地権者の許可があれば作れたととまなる
そして一番の障害が漁業権を持っている漁業組合だともなった。なぜなら事故前も多額の補償金をもらい原発御殿が建ってていたとかうらやましがられていたからである。
それで浪江の請戸の漁師が特等室に入り家を建てると豪語していたのである。それだけ手厚い補償がなされていたのである
だから責任となれば漁業組合が反対すれば原発は建てらなかったとすると漁業関係者にある。事故後ならしかたないがなぜ事故前にも補償金をもらっていたのかと問われることになったからである。

結局責任とは何か?
権限を権力を与えられた者にある

なぜなら権限も権力もなかったら何もできないともなるからである。ただ金をもらえばいいとはならない、その金には責任が付きまとっている。つまり現代の責任は金なのである。金の額に比例して責任が課せられている。金を多く持つ者はそれだけ責任を持たされている。それがわかりやすいのである。だから東電に天下りした官僚などはその金を返還すべきだとなるがそんなこと指摘もしないことが不思議なのである。

●漁業者が事故前も補償金をもらっていたことの責任

とにかく責任の大小があることは確かである。責任は一様ではない、その目安として東電であれ政府であれ金を貰っている額で責任の多寡を見るとわかりやすいのである。現代社会の責任は金にあんったからである。地位があっても金がさほどもらわなければ責任はないとなるからである。
だから責任を負いたくなければ極力金をもらわないとなることだがとにかく金をもらえればいいとなる。だからこそ漁業関係者は事故前も多額の補償金をもらっていたから事故後のその責任をとわれることになったのである。
もし事故前に金をもらっていなかったら事故後に金をもらっていたらそれほど責任は問われなかったとなる、だから安易に金を受けとなるが金をもらえばいいとしかないのが現実である。
そこに金の怖さがある
ただ言えることは責任は必ず取らされる、誰かが取らされるのこの社会である。戦争で300百万死んだというのも国民自体が責任をとらされたのである。責任が誰にあるにしろ必ず責任を誰かが取らされる

原発事故でもそうである。故郷に住めなくなったということで責任をとらされたのである。小高の人が原町に移住して病気になり息子が移住した仙台市の病院に入院したというのもそうである
その人は東電のことを悪く言っていない、むしろ津波に被害にもあったが津波の被害には補償金が出なかったが原発の補償金が手厚かったということで批判しないのである

とにかく国民にしても責任があり原発事故で莫大な国民の税金がとられた。それは国民にも責任があったためである。福島県民だけを責めるのは筋違いだとなる。責任はまねがれないとなる
posted by 天華 at 09:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連
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