2024年09月21日

何が神なのか―人間は足りないものがあるから神を求める 【心貧しき者は幸いであることの意味】


何が神なのか―人間は足りないものがあるから神を求める
【心貧しき者は幸いであることの意味】

なぜ巨人幻想が生まれるのか―人間の卑小さを脱するため 【巨人幻想の詩】

●巨人願望超人願望がなぜ生まれるのか

神とは何かというときまず人間自体が神とは見なかった。
人間は体にしても小さいし様々なもので欠けている。病気にもなるし老いてゆくしと人間には足りないものが多々ある
だからどうしても神というとき巨人願望幻想となり巨大な神像とかになった。それがエジプトのファラオの像である
また神話の神でありそれは人間ではない、その後でも人間は卑小なものだからその卑小さを越えるものを望んだ
それがニーチェの超人とかになる。人間はとにかく様々な弱さをがあり絶対的強さを持ちたいとなるのは当然なのである
そもそも地球に80億の人間がいる時そんなに多い人間がなものにならない、ただありふれたものでありそれに価値を見え出せないのである。
そして現代の特徴はそんなありふれた人間を特別なものとして見ない、ただ数が集まる時その集団化したものを恐れる。一人一人の人間など価値がない、でも集団化すると価値ではないがそこに存在感あり政治的経済的価値がありそれを認めるのである
人間は現代は統計として数として認識するのであり個人として一人は存在しいなのである。宗教でもそこに数集めれば何かがあるとしてその存在を意識する。でも一人なら誰も意識すらしないのである。

●卑小な弱小な人間で満足する人は一人もいない

キリストが神の子であったというときそれが認められなかったのは神が何であるか認識できなかったからである
人間が神になるのか卑小などこにでもいる人間が神になるということが認められなかったのである。特に自分などでも何か体が弱くまた知能的にも劣っているというときそんなものが神になるのかとなる。体でも生まれつき欠陥がありそれで今年の夏が酷暑でおかしくなったのである。
だからこそ巨人願望幻想が生まれる、卑小で弱小でありたくないとなりそうなる。人間は自然の壮大さと比べるとき余りにも弱小な存在である。何か吹けば飛ぶような存在である

人間が人間であることに満足している人一人もいない、それは人間には足りないものがありすぎるからである。完全無欠な人間もいないし万能な人間もいない、だから人間は誰でも劣等感をもっている。それぞれ何か足りないものがありそれで他者がそれを持っている時羨み嫉妬するともなる

●神はまず人であり神であること

でも神とは何かとなるときキリストは神の子でありまた人でもあった。人でもあり神の子でまあった。神話の巨人とかではなかった。たいがい人間として見ればそんなものありふれている
どこにでもいるしその人間が神の子だというとき何なのか理解できなかった。だから神の子として認識できなかったのである。

ただキリストの不思議は神が人であり神であったことなのである。まず人であることでありその人が神性が備わっていたのである。巨人が神である時それは人ではないのである
まず人であることが神性がそなわることになる。だからこそ大工として普通に人間として働いていたのである。神話の巨人とかはそなことしない、何をして食べて暮らしていたかもわからないのである、巨人ともなればその体をどうして維持していたのかとなるからである。

神というのは人間離れしたものではなく人としてありまた神としてある。つまり人としてあらねば神ともならないのである
ではその人とは何かとなれば人には情がありあわれみがありとなりそれが愛ともなる。それが神に通じるものとして人にある
何故なら動物にはないからである。でも人間と同じく親子の情はある、哺乳類になるとある。だから人間に通じるものがある。

でもどうしてもキリストを神の子として認めることはできなかった。人が神であることを認めることができなかった。それは今でもそうである。なぜ80億人もいる人間がありふれた人間が神なのかとなるからである。でも人としてあり神としてあったことがキリストの出現で実現したのである。

●貧しき者は幸いであるの意味

逆にまず人であらねば神ともなりえないのである。だから人ではない巨人願望が幻想にもなる。人間が完全無欠だったら神など求めない、自らが神になるからである。そしたらそもそも神は必要ないとなる。人間は欠けたものがあるからこそ神を求めるのである。心貧しき者は幸いであるというとき何か足りないものがあるからその足りないものが神によって満たされる

でも自ら神になれば別に神は必要ではなくなる、すると神の役割もなくなっていしまうともなる。だからこそ人間は常に欠けたもの意識するからこそ神を求める、もし完全無欠で神のようになっていたら神を求めないのである。だから奇妙なのは人間は常に足りないものがありそれで神を求める、そのために神と人は結ばれるとなる。完全無欠だったら神を必要としないからである

心貧しき者が幸いであるというときの貧しさ空虚さがあるかこそそこに神が働きかけることができる。でも完全無欠だったら神の働く余地がないとなってしまい神の役割がなくなるのである。
だからこそなぜ天才はあまりの恵まれているからキリストを神の子とは認めず自らがニーチェのように神となってしまうのである。そこに学ぶべきものがあるとしても天才になれるわけでもないから失望に終わるとなる。

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