2024年06月07日

個性が発揮されない不幸−教育も規格品を大量に作ることー自己啓発が個性を作る 【調和の天の花園ー詩】


個性が発揮されない不幸−教育も規格品を大量に作ることー自己啓発が個性を作る

【調和の天の花園ー詩】



flowergardenheaven2.jpg


fruitgarden.jpg




調和の天の花園

赤い花はさらに赤く
黄色い花はさらに黄色に
青い花はさらに青く
神に与えられた色を
十分に出して咲く
その時花々は幸福に満ちている
青い花として咲くものを
赤い花として咲かせることは
花にとって苦痛でしかない
その花園に蝶は舞い小鳥は歌う
そこが正に天国である
それぞれの色に花は咲き満ち
調和して神の国は成る
小さな花も大きな花も
すべてが調和して神の花園は成る
深い木陰があり石があり
人は休み大きなでんでん虫がいる
神に選ばれた人は飽くことなく
その花園を散策して心満たされる
そこに新しい花が加えられて
更に花園は美しく変化する
そこに種々の果実はふんだんに実り
飢えることの不安はない
神はその子に惜しみなく与えるから
・・・・・・・・・・・

●なぜ人間が不幸になるのか―個性が発揮されないから

人間が不幸になるというとき人間にはそれぞれ生まれついた性質や天分がありそれが考慮されないことである。陰の性格の人もいて陽の性格の人もいる。でも陰の性格の人は嫌われ陽の性格の人が好まれるから陰の性格の人は陽の性格になろうとする
そのこと自体無理なのである。青い花は青い花として咲くとき本分を発揮して幸福だとなる。

何か教育では人間を一つの色と見てしまう。社会でも一人一人の個性を見ない、集団化組織化して一律にした同じ色にする
それはカルト宗教団体でも組織化集団化する所ではそうなりやすい、それぞれの色とか認めない、黒なら黒に染め上げる
何かみんな背広きてネクタイしているのかとも疑う、学校だったら制服を着ているのかそれは軍隊と同じになる
ただ人間を訓練する時軍隊的訓練は必要になる。ただそれが人生全般を通じて一つの色にすることそれが問題なのである。

ともかく人間を不幸にするのは何なのか。例えば医者の家に生まれたら必ず医者になれとか強制されるでもみんな医者になることがあっているとは限らない。でも親から強制されるから医者になったとかしてもその人の天分がないとしたら不幸になったかもしれない。

人間は自分の個性に発揮していけるということはなかなかできないそもそも天職についている人がどれだけいるのか、ほとんどが社畜とか言っているように強制的に自分の意に沿わずとも無理やり無理して働いているとなる。その人たちは不幸なのである。でもそういう人はこの世ではは多いのである。
第一その人の個性といってもそれが社会に受け入れられることはなかなかない。だからもともとは青い花なのに赤い花として咲けとか社会によって強制されるのである。そこに人間社会の不幸がある

そもそも人間社会には調和がないのである。人間そのものもそうであり絶えず争っている。家族でも絶えず争っている。何か調和がある世界を見ることはできない。調和がある世界となれば神の国天の国にしかありえないのである。ただこの世にそうした調和がない世界でもこの世で天の国の神の国が擬似的なものは見られることは確かである。それは自然の中にあり自然は調和しているから平和がある美がある。天国の模型でありそこに救いがある。

●個性を発揮する教育は困難

いずれにしろ教育にしても難しいのそれぞれの個性といっても個性を活かすと言って何が個性なのかも分かりにくい。
結局集団組織がした教育となれば一律に強制的に教えることになる。学校というのは何かとなればそれは工業社会に適応するために作られたものだとされる。なぜなら工業社会では同じ製品を大量に規格化された製品を大量に作ることが必要である。それは人間にも適用されるのである大量に規格化された人間を学校で教育するということにもなる。

それぞれに個性にそれぞれの個性に合った教育などとてもできないのである。そこに教育の限界がある。教育とは自己啓発がしないとそもそもは教育にならない。その人のあったもの自己啓発して自己研鑽して見出す事だからである。他者からいくら押し付けられて教育はそもそも無理だからである。だからそもそもその人が青い花なのに赤い花にするということ自体が無理であり人間を歪めてしまうのである

何かオランダあたりでは教育でも詰め込み教育ではなく机と椅子を並べて詰め込む教育ではない。少人数のグループで自由に配置して自由な探求をしている。そもそもは学校というのはやはり多人数の人一律に教育して方にはめこむことである。それはカルト宗教団体とも似ているのである、それは日本の寺子屋でもそうだったのである。

そういう場からは自由な発想などは生まれてこないのである。日本人が高度成長時代の時あらゆることは日本人は優れているとか言われた。ジャパンアズナンバーとか言われた。
でもそれは日本人が何か発明したとか優れたというものではなく同じ製品を大量の規格品を作ることにすぐれていた。確かに品質はいいものであったがそれは大量に規格品を作るということでもあった。

●日本人はなぜITに遅れたのか?

ではなぜ日本人はITに遅れてしまったのか。あれほど技術的にも優れていると言われた日本人はITに遅れてしまったのか。それはやはり日本人はもともと創造性とか発明する何か地盤となるものはなかったのかもしれない。発明となるとき文明では必ず文明国では中国でも漢字を発明したり色々と発明している。日本人は何か発明したものがあるかとなるとかなり少なくなってしまう
猿真似国家として揶揄されたのもわかる。

今AIが急速な進歩をしている。でも日本人はその開発にも参加できていない。すべてアメリカ中心になっていてその中核に入っていけない。なぜAIが最先端なのかというとそれが人間の頭脳と関係しているからである。それをそれを一番感じたのはなぜBing イメージクリエイターで絵画作れるのかということである。私は全く絵を描けないの絵を作り出すことに感嘆するのである。それも簡単な言葉であり何か工夫することがほとんどないのである
だからどうして絵が作られるのか不思議になる。

 AIで感じることは人間の才能とは何なのかということにもなってしまう。人間の才能は実際はわずかなものでありコンピューターの方は優れているともなるからである。そこにAIのこれから計り知れなく発展する世界があるのかもしれない。これまでこうして人間の頭脳に直接関係するものは作られなかったからである
だからAIが人間の頭脳の代わりになり芸術まで想像するとなると人間の能力とは一体何なのかとなってしまう。

とにかく自分は大学まで組織集団に適用するために努力してきたのである。それはカルト教団に入ってもそうだったそこでは黒に一色に染まることである。他の色を入れることは不可能なのである。それはまさにナチスになるのである。
私は家族に恵まれた結果会社にも入らず私自身の好きなものを追求してきたのである。それはやはり家族に恵まれた結果そうなったのであるそれはまた異常なことでもあった。私自身に適していたことでもあったのである。そのために社会性が喪失して介護になった時塗炭の苦しみになったのである

ただ人間というのは何事良い面と悪い面に働くことは確かであるだから引きこもりが悪いものとされるは陰の性格の人にとっては社会組織集団に適応することができないからいい方面に働いたとなるのである
いずれにしろ教育とは強制できることは不可能である。ただ自己教育が教育であり自己啓発することでその人の個性は本分は発揮されるのである。いくら強制しても無理なのである。

posted by 天華 at 13:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育、心理学など
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/190929623
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック