長泥ー津島をめぐり昔を回顧する
【戻れない故郷ながどろ】を読むー私の父親の関連
●不便な長泥でも帰りたい理由
長泥とかあのような山深いなかでどんな暮らしがあったか、江戸時代から人は住んでいた、ただ天明の飢饉があり村が消失する危機があった。でも江戸時代から家は続いていたのである。
七〇戸ありそこは一つの家族のようにもなっていてそれで避難した人たちが帰りたいとなる。そんな不便な所に帰りたいのとかと思うがそこには仲間がいて助け合う村の人たちがいてそういう暮らしを長年していれば自ずとそれもいいとなる。
そして年取ると慣れ親しんだ場所とか人とといるのがいいとなる。もし若ければ適応力があるから知らない土地に移り住んでも
そこが第二の故郷ともなる。適応力があるから若ければ他に移り住んでもそれほど感じない返って便利になっていいとかなる。
そうは言っても大倉の近くの木戸木(ことぎ)に一人で住んでいる老人は買い物でも巡回のバスで行く。車がないと不便である。車というのは田舎では広い地域に住んでいるから街から離れていると必需品になる。その老人は体も弱っているから苦しくなっている。医者に通うとなると車がないと不便なのである。知っている人は息子が車に運転してもらい通っている。
その人は大工であり若い時は東京の方に行き稼いだと言っていた
そして長泥でも原発で働いていた人がいたし出稼ぎもしていた
ただ不思議なのはトロッコで石材とか運んでいたという、あんなところまでトロッコが使われていたのかとなる。いい御影石がとれるとかで石材の加工をしていた人がいたという。私の近くでも墓石を作る人がいた。機械がなくノミのようなもので削っていた。なぜ石材が必要だったのかとなるとそのころ外国からは石でも材料が入って来ない時代だったからである。
今では中国からでも石材の御影石でも入ってっ来る。そういうことも山村とかが生活するのに苦しくなった。グローバル経済の影響は余りにも大きいものだったのである。
●阿武隈山地は葉タバコが向いていた
ともかく山村でもそれなりの暮らしがあり生活していた。葉タバコは江戸時代から栽培されていた。阿武隈山地は寒冷であり葉タバコに向いていたのである。明治生まれの私の父親はキセルを使い葉タバコを詰めて吸っていた。それは江戸時代の続きだったのである。葉タバコの消費量は相当なものだった。キセルでも時代劇でいいキセルが欲しいとなり大金を払うとなる。花魁とかも長いキセルを手にして吸っていた。
煙管(キセル)の持ち方で身分が判明?花魁や男女の持ち方とは?
侍や町民や農民でキセルの持ち方が違っていた。これも身分社会だからそうなった。そもそも侍とか町民とか農民では言葉使いも違っていたからである。
とにかく葉タバコがとれてそれせ現金収入になることは助かったとなる。ただ健康的にはいいものではなかった。
四国の貞光町は藩政時代には葉たばこの集散地として栄えたところ。商家の重層(二層)、瓦葺のうだつが往時の繁栄を偲ばせる。
それだけタバコの重要が大きかったのである。
私の父は肺癌で死んだというときタバコが関係していたのか?それはわからないがタバコは体に良くないのである
山村暮らしでも現金収入になるものはあった。養蚕はかなりの収入になった。蚕に食べさせる桑の葉はどこでも作れるからである
石材など木材でも戦後網の目のよう森林鉄道が張りめぐらされて東京に運ばれた。だから長泥からも運ばれた。そして原ノ町駅が
機関区になっていた蒸気機関車で東京に運ばれたのである。石炭は常磐炭田があり平駅から今のいわき市から運ばれた
牛を飼うようになったのは戦後であり牛の肉を食べることは日本人になかったがアメリカにならって牛の肉でも牛乳でも飲むようになった。
また飯館村でも江戸時代から住んでいた人もいたが戦後の引揚者が入植した人もいてまぎらしいのである。村の歴史を見る場合まず古い家を知ることが大事だからである。何か辺鄙な所に住んでいる人は意外と戦後開墾して住んだ人なのである。
●長泥の店と私の父が双葉の酒屋の丁稚だったこと
長泥にも店屋があり万屋(よろずや)が一軒あった。何でも売る店である。津島の方から炭を買っていた。
昔は炭をしょってきて酒飲みに来たんだ、
昔は掛け売りで月の最期に集金、飯館村だけではない双葉村まで集金した、なんだかんんだで払わね奴ははらわねいしな、
戻れない故郷ながどろ
これを読んで明治生まれの私の父親が双葉の新山の酒屋で丁稚奉公していた。その後暖簾分けして鹿島区に写り酒屋を始めた
掛け売りというとき現金がないから借りて買うということである。貧乏な時代にはそういうことが多かった。何か私の家で部屋貸していたらしく毎日家賃をとりにいったとか聞いた。日銭払いとかになっていた。それだけ貯金などしていないのである。 江戸っ子は宵越しの銭は持たぬというがそれは気前がいいというより貯金と町民はしていなかったのかもしれない。ただ商売している商人は蔵に小判を貯めていたから盗賊に狙われたとなる
普通の町民はそもそも貯える金など持っていない、そんな収入がなく掛け売りとか日払いでその日その日をしのいでいたとなる。
長泥のことで双葉のことがでてくるが双葉で酒造りしていた。
今でも一軒酒屋が富沢酒店が残っている。煉瓦の煙突があり大きな酒屋だった。そもそも昔の戦前でも酒屋が街の中心となっていた。酒屋でも樽から少量でも酒を売っていたのである。子供の時近くの酒屋に酒を買いにいかされたからである。その時私の家では酒屋をやめてなんでも売る店を始めたからである。
とにかく私の父は通い帳を残していて酒でも掛け売りでありその取り立てに苦労していたのだろう。それでわずかの土地を担保にして酒を売っていた。その土地の借用書権利書が残っていて今でもそのために税金をはらっているのである。その土地がどこなのかもわからないのである。
だからみんな貧乏で酒でも満足に飲めていなかったのである。ただ酒自体も体に良くない、それでも信長の時代日本にキリスト教を伝えた宣教師が酒を飲んで栄養にしたというとき酒でも栄養になったからそうなったとなる。・
何か長泥とか遠くて関係ないと見たがそうでもない、双葉と長泥は関係していた交流があった。やはり相馬藩内だと交流があるとなる。結婚にしても昔は相馬藩内でしていたからである。
父の残した通い帳
●長泥に住む価値は都会よりは大きなものだった
いずれにしろ長泥であれ津島であれ飯館村でも回復する復興するのは相当に難しいのではないか。特に長泥とか津島となると90マイクロシーベルトあったとか信じられない放射性物質に汚染されたからである。だから今でも山は立ち入り禁止になっている。それだけもはや除染することもできないし集落は崩壊したとなる。
飯館村の方では確かに住んでいる人がいる。長泥とか津島とかでわ住んでる人もいない。そこを復興しようにもどうしてしたらいいのかもわからないとなる。山の領域は生活で活かせない。山菜戻ることもできないするとどうしたらいいのかとなると相馬市の玉野村のようにまた丸森町のように山ごとソーラーパネルにしてしまうのかもしれない。そもそも何らかの収入がなければ山で生活することは不可能だからである
ただトルコキキョウを栽培するとか花の栽培をするとか長泥でもはじめているというのは飯館でも花栽培をしたからである。花は食べるものではないから放射性物質に汚染されない関係ないからである花というのは現金収入にもなりそれで農家では花栽培で生活している人がいるからである。
山菜とかは取れてもそれを売ることもできないからである第一水とかと土とか水とか木材でも木でも汚染されるということは生活の基盤は失われてしまったということであるそのことが致命的になったのである。もし生活の基盤が失わらなければ貧しいなりにこれまでも生活できたのだからできないことはない.
でも生活の基盤となる水から土から木まで汚染されたらどうにもならないとなそのことが一番放射原発事故の被害の大きいものだったのである。
都会の人は限界集落などなくしてしまいと言っているがそうなる時日本はどうなるのか人間はさまざまな地域に住んでいることで多様性が生まれる。だからあんな辺鄙なところに人が住んでいるということは何か特別貴重なものにも見えた。そこに暮らしている価値は大きい物だったかもしれない
価値というとき経済的価値とかだけを見ていれば山村などは何の価値もなる。も精神的というか人間的価値という時また別なのでその価値は東京とかより全く違ってその価値は大きいとなる。 70軒あったとしてその一軒一軒が価値あるものとなる。 1000万の大都会となれば一軒一軒などどうでも良いからである。
大都会の価値はい千万分の一ともなってしまうのである
でもあのような辺鄙なところで生きることは帰って精神的な面からまたは文化的な面から見れば全然違った価値がそこにあるとなる
そして日本全国でもさまざまな土地に人は住んでいてその多様性が様々な価値を作り出しているのであるその多様性とはその様々な土地から基本的に生まれてくるからである
海側に住んでいるとか平地に住んでいるとか山に住んでいるとかそれによってそのそこに多様な文化が形成されそれが人間を豊かにするのである。それがなくなったときただ都市だけになったらそこに文化もなくなり多様性がなくなり生きていてもつまらないとなる。
だいたい都市と言っても何か皆同じようなものであり大都会になると世界でも巨大なビルが立ち並び同じようなものになっている
世界でもはニューヨークであれ東京に行くようになったらつまらない
経済的には大規模であり人はそこに吸い込まれてゆくのだがそこでは人間の充実した生が営まれるかというとそういうこともないのである
そこで人間はどうなっていくのかただ数として数えられて無機質な個性のない人たちが大衆となり群衆となり消えてゆくだけだと思う。無縁化孤立化してつながりもなく死んで山に帰り先祖となるとかもない、そこに山はないからである。その遺骨は狭い団地のような区切られた一室に押し込められるともなる。それは番号になっているのかもしれない、誰も一千万とかの都会となれば数として番号化されだけだとなる。何番が死んだとかなる。
そこにその人の個性を示すものはないとなる。
でもこうした辺鄙な山の中村とかでは一軒一軒の一人一人が存在感があるものとなる。だからこそ長泥でも津島でも帰りたいという人がいるときそれは何か経済的なものを物質的なものではなく精神的なものがありそれを求めて帰りたいとなるのである。
とても東京とか大都会は故郷にはなりえないからである。だから経済的効果がないしもはや復興することもできないとして村が消失する時は何かやはりこの辺では大事なものは体の一部分が失われるような感覚にもなるのである。だから人間はすべて経済的効率から見ることはできないのである