2024年02月28日

明治天皇の短歌の鑑賞―隅田川に浜離宮は東京ではいい場所 【天皇は家の柱国の柱中心として必要だった】

明治天皇の短歌の鑑賞―隅田川に浜離宮は東京ではいい場所

【天皇は家の柱国の柱中心として必要だった】

●天皇は日本の心を受け継ぐ

神路山みねのまさかきこの秋は手づから折りてささげまつらむ

自ら榊を手折るというとき店で買ってささげるのとは違う、その山を想い自然にじかに触れることである。だから何でも金を出して買うという時人間はその物の貴重さがわからなくなる。スーパーに行って金さえ出せばなんでも買えるとなる。でもその物のはどうして作られたのかそれがわからない。それを分かっているのはそれを作った人なのである。

一つの果物でも梨であれりんごであれそれを育てて作っている人はまさに自然と直に触れている。その人こそその果実のありがたみを知るのである。また一つの果物でもそれを作るには一から始めするとうまいものは作れない。なぜならその土地に通じて十年くらい試しにでもやっていないと実験していないと作れないからである。だから農業の場合親の後を継いでするのが向いているのである。一から始めることは難しいものとなる。

目に見えぬ神のこころにかよふこそ人のこころもまことなりけれ

神は目に見えない。それはキリスト教でも同じである。そして神は人の心を見ていると言う時人の心が神には見えるのである。だからこの短歌は深いものがある。

●馬が活きていた時代の短歌

うちのりて雪の中道はしらせし手なれの駒も老いにけるかな
春風にいななく駒の声すなり花のした道たれかゆくらむ

この歌は馬が現実に生きて活用された時その馬が人間のようにもなる。長年この駒に乗ったがこ老いたな感じるとき人間のように見ていたのである。この時代はまだ馬が活きていた。馬が活用されていたのである。今は馬は見かけない。競馬場で見るくらいになってしまった。
でもこの辺では相馬野馬追はある馬を飼う人がかなりいて馬が身近にいる。ただそれも野馬追に出るためだけに飼っているから馬が活かされているとはならない、費用もかかるから馬を飼うのも大変なのである。

でもそういう土地柄だから馬に関心あるとなる。でも全体的には馬というものは何かわからなくなったのである。春風が吹いて馬の鳴く声が響いてくるとき馬も社会全体の中に自然の中に生きていたのである。
だからこそ時代時代に人はその感じることも違ってくるのである。今はもう馬のことを身近に感じない。ただ車だけが行き交う機械社会になっているからである。そのために馬と情を交わすということもなくそのために人間は情が育まれなくなったともなる。機械とかコンピューターには情が持てないことが問題なのである。相手が動物だと情は通じるからである。
ただいくら餌やっても外で勝っている猫はなれない、やはり相当に外でひどいめにあったからかもしれない。


●真木柱の歌ー家が老人には大事になる

まきばしらたちさかゆるも動きなき家の主【あるじ】のあればなりけり


まきばしらと言う時

かみかぜの伊勢の内外のみやばしら動かぬ國のしづめにぞたつ
神風のいせの宮居のみや柱たてあらためむ年はきにけり

天皇の御製歌(おほみうた)一首

あをによし奈良の山なる黒木もち造れる室(やど)は座(ま)せども飽かぬかも

この歌に通じるものがある。私の家を作ったのは姉と母であり特に姉は地元の木材で同級生の人がいて柱を立てたと何度も自慢していた。そしてここに私が住んで居られるのもそのおかげなのである.家の中心なる者がいて家も治まる。その家を拡大したのが国家になる。天皇は象徴でも神祇を司どるものとしての役割があった。ただ戦争がありその神が戦勝を祈るものともなった。神道が国家神道になった。それで昭和天皇は戦後戦いの神ではないとして平和の神として全国を回ったのである。

桑折代官所は天和三年(1631)に設けられ桑折藩時代の後に明治維新後に廃止されるまで宅200年間この地を治められた
桑折から北畠家顕家のの居城なりしと霊山を観て

【古へを忍ぶの山の時鳥、木かくれて啼く声を聞ゆや】

の歌を残した。桑折という姓は霊山の滅びた時この南相馬市に落ち伸びた一族である。桑折とは郡役所の郡のことであり郡山も古代の役所が置かれた場所である。南相馬市だと鹿島区では霊山が滅びて落ち伸びた武士の一群が多い、有名なのは多田野村を由来とする只野氏である。そもそも明治になって天皇は南朝を正統として受け継ぐものだったからである。ただ霊山には直接来ていない。遠くから見たということである。この歌はいい歌である。
何か天皇となると皇統を継ぐということで代々の思いがあるから違っている。ただそういう思いも平成天皇であれ令和天皇であれ受け継ぐのが難しくなっている。時代が変わりすぎたのである。

從二位伊達宗城の邸に立寄らせたまひてあくる年二月十三日に下し賜へる

花ぐはしさくらもあれどこのやどの代々のこゝろをわれはとひけり

これは家という建物ではなくその家の成り立ちとか家訓とかありその心を見たのである。代々の心とはまさに天皇にはあったとなる。明治になってからも伊達家はあったのか、侍はなくなっても上級侍は氏族になり俸禄が国から支給されていた。だから生活にこまることなく屋敷を持ちいい暮らしをしていた。
士族と平民に分かれたのだが下級武士には支給されず自力で生活するほかなかったのである。

ともかく年取ってくるとつくづく住む家が大事になる。家に居る時間が長くなるからである。そこが住みやすくないと老後は安住の地にはならない。それが自分にわ与えられていたのである。だから私は特別親に感謝しているのである。

しづかなる所えたりとうぐひすもみやまがくれの花になくらむ

こうした場所があるといいのである。

●家の中心となる者が必要―国家の中心が天皇

とにかく家というのは何か中心になるものがないと維持できない。それは私の家のことでいやというほど経験している。 2人の親がいたようになっていたが争っていた。それは嫁と舅の争いでもそうである。そこで中心となるものはいないと治められない。天皇というものも実はそれに似ている。日本という大家族の中心に天皇がいて国民は赤子となっていたからである。つまり天皇が親であり国民はその子供となっていたからである

江戸時代の徳川幕府でもなぜ長男を跡継ぎとして大事にしたのかそれは徳川家を維持するためにまとめるために中心となるものが必要でありそうしたのである。その跡継ぎとなるものは必ずしも優れた人は言えなくても跡継ぎにしたのである。そうでないと権力争いがあり家がまとまらないからである。そのために南北朝の争いは2人の天皇が生まれて争うことになったからだ。その争いは全国民に波及して隅々まで二つに分かれて日本は争い続けてきたのである。

だから天皇は一人でないと収まらないということである。その天皇は必ずしも優秀でなくてもいい。飾りであってもいいと思う。それは国民をまとめるために家をまとめるためにただの象徴でも必要だとなっていた。それはもしかしたら子供でも良いし極端になれば人形でもいいともなってしまう。それだけ家でも国でも一つにまとめることが容易でないからそうなったのである。だから戦後まさに象徴天皇となったのは飾りでもいいから国をまとめるものとして必要だからそうなったのである

明治天皇は偽者だという説もあるなそれも別に血統とかではなくまさに象徴として必要なのである
それにこだわることもないとなる。国をまとめるのに必要だから作られたのであり血統とかそういうものでもないのである。天皇の血統が果たして続いたかどうかなどわからないからであるだから象徴となれば人形ですらいいのかもしれないともなる。
日本の天皇は権力をもたない。だから外国の王様とは違う、天皇も中国から取り入れたとしてもそもそも中国の王の権力は絶大であり民衆を奴隷のようにもみていたからである。それで民にも権力争いでも熾烈になり恨まれたのである。日本の天皇はそうした絶大な権力を持つ王様とは違っている。江戸時代などは短歌の短冊を売って貧乏な暮らしをしていたのである。でも一応徳川幕府が天皇認めていて待遇はしていたのである。

ただ明治天皇というのは何か顔を見ても威厳がある。それは江戸時代から明治になった人たちは育った人たちは何か威厳があった侍であった人たちは違った人たちであった。
やはり人間も時代によって作られるのである。10年20年違っていても何か人間が変わってしまったといわれるからである。だから明治は偉大な時代であったのである。
でもその後は明治の後半でも何か侍というものはいなくなった。だから人間そのものが変わったというのは時代の影響でそうなっていたのである。今でも世代によって人間が違っているからである。それで時代によって顔つきまで違っているのかとなる。江戸時代の人と明治時代の人は相当に違ってしまった。顔つきまで違ったことは言える。でも明治時代はまだ侍は存在してその顔つきでもやはりその後の人とは違っていたのである。

●思わぬことが人生には起きる

思わざる事のおこりてよのなかは心やすむ時なかりけり

このことは自分自身でも痛感した。 2人の親がいるときはこういうことはなかった。 2人が死んでからは自然災害があり津波があり介護に追われ自分自身も病気になり家に来る人には責められ自分自身が病院に入院しては虐待されたり散々な目にあったのである。心休むときはなかった。ただそれも楽をした自分のカルマであったのである。人間は例えいくら恵まれていても必ずこうして苦しむようになっていたのである。つまりこの世に生きる限り思わざることが必ず起こるのである。

わがためにこころつくして老人が教へし事は今もわすれず

老人の言うことなどうざいとか聞きたくないとかなるかやはり老人が語ることは経験したことであり重みがある。必ず老人はその生きたことをそれぞれに生きたことを語る。その苦しかった頃などを必ず語るそれが教訓となるのである。そこに必ずこれから生きる人にも参考になることがある。老人というのは必ずそうして苦しかったことなどを語りそれがのちの人のためにもなるのである。ただ老人にもいろいろあるから全ての人が語ることにはならないのである

●浜殿ー浜離宮の歌

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江戸城から皇居からそんなに遠くないのか、あまり遠いと行きにくい、江戸城でも意外と海に近かったのである。

はまどのの庭の池水あさしおのみちたるうへに散る桜かな


浜離宮春の潮の充ちて入る松の静かにここに会すも【自作】

東京湾から海水を取り入れ、潮の干満で景色の変化を楽しむ、潮入りの回遊式築山泉水庭
園内には鴨場、潮入の池、茶屋、花畑やボタン園などがある

家宣のお成りを祝い観覧式が行われた、飾り立てた船を浜御殿に繋留し、家宣の命令で舟は一斉に漕ぎ出した[。公家たちは中島の茶屋に集まり、大泉水を眺めながら和歌を詠み、大泉水に船を浮かべて船上で演奏をした[7]。
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東京では自然を感じる場所がまれである。浜離宮は海からの潮を取り入れる離宮である。だから珍しいとなる。それで浜離宮で春の潮の入ってくる。東京で自然を感じるというとき隅田川があるそこから海へと注ぐから自然を感じる。他は自然を感じないのである。

でも江戸時代になると水路がめぐらされていて舟で船で行き来していた。それがなんともいい風景なのである。ベネチアのようにも見えるのである。でもそういう光景はは全く東京から消えた。それでただ殺伐としているだけなのである。だから私はずっと東京には行きたくないとなったのである。浜離宮とか明治神宮は自然がありいい場所である。百羽の鴎が隅田川を飛んでいたときは隅田川らしいと思った。

隅田川百羽の鴎や春の日に飛びきて近く海に出でるも(自作)

隅田川かかれる橋のいくつかなその名の良しも春の日渡る





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