2024年02月19日

戦後民主主義の問題 【権利ばかり主張して責任とか義務がないがしろにされた】


戦後民主主義の問題

【権利ばかり主張して責任とか義務がないがしろにされた】

●原発事故の責任問題

戦後民主主義の問題として一番欠落したのは確かに権利を主張することは肯定された。でも問題はその権利にを主張するのはいいとしてもそれには必ず責任と義務があった。それがないがしろにされたのである。なぜか人間というのは責任から逃れられない。何であれ責任がつきまといその責任が問われ現実に責任をとらされるのである。
この辺で起きた原発事故はまさにその具体的な例である。そのことを私は追求してきた。その責任は故郷に人が住めなくなるほどの大きな災禍をもたらしたからである。その責任が誰にあったのかということを追求して追求した。
そうなるとその責任の範囲は広く国民全体であり政治家でも官僚でも科学者でももちろん東電でも地元の人でも責任があった。その濃淡はあるにしても責任はあった。ただ責任にしても現実に責任を取らされたのは地元の人たちである。故郷に自分の住んでいる場所に進めなくなったことが最大の責任を取らされたのである。

でも原発を推進した人たち政府や官僚の科学者でも東電の幹部でもその責任はとっていない。天下りした官僚でも金をもらっても何ら責任を取っていない。普通100円であれ1000円であれ盗んだらそれは見つかったら厳しく罰せられる。でもその警察関係の官僚が天下りした東電でわ多額の金をもらっても事故を起こしても罰せられることもないのである。
要するにそういう役得があり地位がある人は責任も重くなるはずなのであるがそうならない。おそらくその責任の重さに比例して金もその分大きなものとなっているのかもしれない。東電の幹部はその責任が重いのだけどそれも対して問われることなく見逃されたとなる。一時は財産没収しろなどと言われたがそんなこともなかった。

●ノブレス・オブリージュの背景

責任というときなぜ王族とか貴族に責任が持たされたのか

ノブレス・オブリージュ
『貴族が義務を負う(noblesse oblige)』のならば、王族は(それに比して)より多くの義務を負わねばならない。」と書いたのが最初である

王族とか貴族は特権を得る人たちだったからこうなった。そもそもヨーロッパの貴族というときその基となったのは都市国家があったとしたらそこに騎士がいたら騎士はその都市国家の住民守らねばならない。そういう義務がありそれで特権を得ていたのである。農民は城壁の外の農地で暮らしていて敵が攻めてきたら城壁の中に入ったりして命を守らねばならなかった。そこで騎士は都市国家の住民を守るために戦う人でもあった。だからこそノーブレスオブリージュという義務が課せられていたのである

ところが日本では侍が特権階級として支配階級として存在してもそこに住んでいる住民とは別である。確かに戦争になれば敵が攻めてくる。でもその戦争は侍と侍の戦いでありそのそこに住んでいる住民は関知しないのである。日本とヨーロッパの違いは城壁に囲まれているとしてもそれは侍が住んでいるところだけであり最後は城に籠る。戦争に負ければ切腹して死んで終わりである。住民は別にそのために敵が来ても殺されるということもないのである。

それで会津であれだけの悲劇があったとしても住民は関知していなかったのである。会津ではその時やーやー一揆が起きた。その理由は侍は税金を取るものだからこの際敵が攻めてきた時一緒になって一揆を起こしたのである。
だからそもそも日本では街を取り囲む城壁はない。ヨーロッパではそこに都市国家があれば城壁で囲まれているし街自体が囲まれてその城壁の外の農民でも敵が攻めてくれば城壁内に入って市壁の中に避難して命を守らなければならない,そういうことがありシティズンシップが仲間意識が生まれたとなる

だから不思議なのは会津の悲劇のことを語られるがそれは住民とは関係してない。ただ日本では戦争があるとしてそこの住民が領民が奴隷のようにされることは無いのである。外国では常に戦争に負ければ奴隷にされるという歴史がある。だから敵が攻めてきたときは住民も一体として戦わねばならない。それはシティズンシップなの生まれたゆえんである。
日本でわ村がアイデンティティの場でありそこには村意識があり共同意識があった。でも城が作られてもそれは侍が支配する場所であり住民とはそれほど関係なかったのである。だからこそ会津で城が燃えたとしても白虎隊はそのために自刀したとしても住民は何の関知していなかったのである。だからこの歴史を見ればヨーロッパでの人は理解しがたいともなる。日本では城が燃えているのを見てただ見ているだけだったのかとなる。それで恐怖もしなかったのかとなる。

●赤信号みんなで渡れば怖くないー無責任民主主義

確かなことは特権を得ればそれに対して責任と義務も生まれていたのである。民主主義はそうした貴族などはいない侍もいない
戦後民主主義が入ってきた時何を一番重点におき理解したかとなると権利を主張することだったのである。権利だけはみんな平等であり主張するべきだとなったのである。それに付随していた責任と義務とかはないがしろにされた。

赤信号みんなで渡れば怖くない責任はない

つまり法律違反であれなんであれみんなで渡れば怖くないその責任を持つことはないということである。それが戦後の民主主義だったのである。誰も赤信号を無視しても法律などを無視してもそれが多数になれば正しいことになったのである。法律があったとしてもそれも投票で決められるとなる。数が多ければ正しいのでその結果として別に日本だけではない数で決まればどうなるのか?ただみんなで赤信号を渡ってみんなが責任を取る必要がない永遠ならない。やはりみんなが責任を取らされるである。その責任のことを感じたらそんなこと普通は出来ないのである。つまり民主主義とはで責任を感じないシステムなのであるでありそこから過ちが起きてくるのである

ドイツでわ民主主義から投票からナチスが生まれたのである。別に数が多ければそれが力となり社会を席巻してしまったのである。戦後のカルト教団が興隆したの政教分離という法律が機能しない。結果的に何か言うと信教の自由だとかなんとか言ってあらゆる自由があるとしてその自由を主張する。でもそこに権利を主張しても責任とか義務は無視されるのである。そのことは民主主義の大きな欠陥であり最大の問題だったのである。

つまり民主主義とは全体主義ファシズムになりやすい制度だったということにもなる。それは数が集まればそれが正しいとなり権力となり社会を支配してしまうからである。それで戦後宗教でも信教の自由がありそれが過剰のなりカルト教団でも許される。それは政教分離という法律があるのにそれも数が集まれば無視されるからである。だからこの問題は日本だけの問題ではない民主主義の欠陥最近は顕著になってきたのであるその本場のアメリカでも内戦になるとこまでなっている。

民主主義自体が行き詰まっているのである。それはそこに権利を主張してもそこに責任と義務があるのに権利だけが主張されるからそうなる。だから貴族の方が責任と義務が課せられていたからその方が良かったと思う。それも問題にしても民主主義も欠陥があったことが顕著になったのである。
つまり現在の権力は誰が握っているかというと貴族ではない一部のものではない大衆だとなるその大衆は権利は主張してもそこに責任とか義務は感じていないのである。また法律的に責任を課せられていないし責任を感じないのである。ただ権利だけは主張するのである。

●責任とは神が与えた良心にそむくのが責任

そもそも責任というときこの世に生まれたときから責任を課せられている。それで生まれてくるとき泣いて生まれてくるのはその責任が課せられているからだとなる。何か人間というのはそもそもはその生まれたこと自体人間として生まれただけで人間としての責任が課せられている。
そのために人間には神が良心を与えて悪いことをしたら良心の痛みを感じさせる。動物にはそうした良心はない、だから別に他の動物を食べても良心の呵責など感じない、善悪もないのである。例えこの世で罰せられなくても裁きとあるというときこの世に生まれて悪いことをすればそれはこの世で罰せられなくても死後裁かれて罰せられるとなる。そういう責任が人間に課せられていて逃れられないのである。

別に勝手にすればいいそんなことでいちいち責任等とる必要もないと思っているが必ず責任を取らされるようになっている。その責任の重大さはこの辺の原発事故でもそうだったし振り返れば戦争でも莫大な人間が死んだのやはり責任を取らされてそうなったとも見る。確かに自然災害による被害も大きいがそれより戦争の被害は何千万という人間は死んでいるのだから比べようがないくらい大きい物なのである。その罪は問われ罰せられるとなれば人間にはそうした責任から逃れることができないということである。

私は何も悪いことはしていませんと言っても神の目から見ればやはり人間は罪を犯しているから罰せられるとなる。それを民主主義だから数を集めれば何でも許されるとか何でも主張できる権利を権力を得られるとかは許されないのである。
でもこの世では数を集めればそれが権力となり正しいとなりそれがナチスになってゆくのであるその結果として莫大な人間が死なねばならなかった。その責任を取らされたのである。責任というとき戦争の責任は誰にあるのか日本の戦争でも300百万人も死んだ。
その責任は誰が取るのかとなるそれで天皇は広島に訪れた時その責任を問われた時たじたじとなった300万人も死んだ原爆落とされて死んだ

その責任は問われたらもし天皇がその戦争を決断で決めたとしたら天皇が責任を取れとなってしまったからである。また原爆にしてそんなものを使って本当に利用して人間を殺戮したということはアメリカにも相当な責任がある。だから東京裁判などという勝者による一方的な裁判などは正当なものでもないしただ勝者の力を見せつけたというだけなのである。そもそも神が裁くなと言った時裁く力があるのは神しかないのである。人間には裁く能力はない。喧嘩両成敗となるのもどちらかにも非があるからそうなったのである。

太平洋戦争でも日本だけに非があるわけでもない。アメリカが攻められないのはただ力があり権力が持ってっているからだけなのである。そもそも悪である日本をアメリカは裁いてやるということ自体どれだけ傲慢なことなのか?
またアメリカでも戦争は力による一方的なものでありそのために多数の人が死んだそれもやはり戦争犯罪でありアメリカでも裁かれるべきものだったのである。ただ戦争となると誰が裁くのかとなると勝者が裁くだけだとなる。だから裁くものは人間でないし神しかありえないのである。
歴史とは人間の罪の記録だというときもそうである。だから最終戦争がハルマゲドンがあり人類が滅びるというのもそうである。
人間のカルマが罪が最終戦争になり人間は滅びるとなる。罪の総決算としてそうなる。それで人間の業(カルマ)が消滅するとなる。





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