冬紅葉の赤さ【冬籠る、つぼみ、冬の菊、冬の暮、冬の鳥】
シメ
冬紅葉赤さにじみて媼かな
我が庭にふくらむ蕾いくつかな
本あまた我が家の広く冬籠る
路地曲がり今日もここに冬の菊
石一つ位置の変わらず冬の暮
冬の鳥一羽確かに見えにけり
紅葉でも冬紅葉となるとその赤さが違っている。何かその赤が滲むような赤さなのである。それが媼(おうな)に合っているとなる。何か確かに老いれば女性も醜くなる。そこにやはり女性として生きてきたものがありそれが滲じみでる。若さの美は無いにしろ何かそこにやはり女性でも年相応の魅力があるとなる。
晩秋のヨーロッパで赤いバラを見た時その赤さが日本で見るのとは違っていた。歴史があるヨーロッパでその赤い薔薇なは本で見るのとは違っていたのである。
写真を撮って拡大したらめずらしい鳥が写っていた
シメという鳥だった。これは肉眼では何の鳥かわからない。写真を拡大してわかったからだ。冬は鳥は葉っぱがなく見えやすいのである。写真撮るのにもいいのである。
ヨーロッパ中部および南部からロシア南部を経て中国東北部、サハリン、カムチャツカ半島までの、ユーラシア大陸中部域に広く分布する。北方で繁殖した個体は、冬季南方へ渡る。
シー」と聞こえる鳴き声と、鳥を意味する接尾語である「メ」が和名の由来となっている
冬の渡り鳥であった。
ともかく冬は冬籠りになる。それは老人に合っている。本を整理しようとしたらなかなか出来ない。ありすぎてできないのである。そしてそこに必ず線がついているのだがそれをそれを読んだという記憶もないし線をつけたという記憶もないのである。
だから初めて読むのと同じになっている。読書で分かったのは本を読むというのは自分の文脈の中で引用して取り入れたとき本当に読んだとなる。今はそういうことができている
でもただ読んでいたのだが線もびっしりとつけていたのだが読んだ記憶もないのである。だから読書というのはいくら本を買っても読んでも活かされていないのである。その人にそれなりの力量がないと本というのは読むことができない
本は買うことができてもそれを理解することが簡単にできないのである。だから人間はつくづく金だけでなんでも得られない。高い本を買ってもそれを理解することが難しいのである。
特に本はそうである。本にはかなり内容がありそれを読みこなしまた引用して自分のものとして自分の文脈の中で活かしてこそ読んだとなる。ただ人間というのは本当に忘れやすい。プログでも相当の量書いたのだがもう一度読んでみるとこんなことを書いて居たのかと自分自身が書いたものすら忘れていることがあるのだ。それで読み直す必要がある。
そしてまたこんなことを書いていたのかと自分自身が書いたものに感心してると言うのも不思議なのである。確かなことは人間ほど忘れやすいものはないということである。
介護になってから十数年何か遠くに旅するということがなくなった。家に居ることが本当に多くなった。それで回想することが仕事にもなるが忘れているしまうことがある。旅したことでも忘れてしまうのである。それで思い出すことが必要になってくるのである。だからその思い出すために写真というのはかなり有効である。写真を見てここに言ってってこんなものを見ていたのだとか思い出すからである。
そういう点でデジカメの時代になって写真で記録させるから今は便利な時代である。私の時代は十数年前はまだプリントの写真であり気軽に何でも写真に撮れなかった。その中でもフィルム写真でも特に外国の物撮ったのは貴重なものとなった。その写真から過去の記憶が蘇るからである
ともかく人間の世界はこの世は変わりやすい。常に変化している。でも老人になると変わらないものはいいとなる。一つの石がありその石は場所を変えることがない。それで何か安心するのである。それは認知症になると特にそういう風になる。なんでも忘れるから自分の住んでいた街の名前すら忘れていた。その忘れることによって不安になるのである。でもいつもある場所に石があるとき変わらないから安心するのである。
冬の路地裏に菊が咲いていた。そこはいつも通る場所であり何の変哲もない場所である。ただそこに冬の菊が咲いている。それは長年一緒にいた仕えてくれた妻のような感覚かもしれない。冬ごもりしていても庭を見れば蕾がいくつか見た。だからやはり春の兆しがあり年が明けてまた新しい命がここに咲き開くのである
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