2023年12月21日

いつも行く道【冬菜、冬椿、冬薔薇、葉牡丹】


いつも行く道【冬菜、冬椿、冬薔薇、葉牡丹】

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前畑に養う人あれ冬菜かな
夕暮れや石の倉古り冬菜かな
散り残る一片あわれ冬薔薇
冬日さし木の根残りし家の跡
葉牡丹に木の根に石や冬の暮
庭に石家建て定着冬椿
庭の石組合い一つ冬椿

黄色なる冬の薔薇咲く見逃しぬ赤き椿や常行く道かな

この辺では原発事故があり避難区域からかなりの人が移住した。そこに新しい家が次々に立ったのである。新住宅街が生まれたのである。でもそれから月日が経ってすでに震災原発事故から12年も過ぎてしまった。ただ人間は必ず時間軸で見る。何かその家がその新しい家でも7、8年は過ぎたのかそうなると何かここに定着したという感覚になる。

人間はやはり建物でもそこに住んでその土地に定着するには時間がかかる。毎年その家を見ていてもやはり時間の経過の中で感じ方が違ってくる。だから冬椿がふさわしいともなる。
今の時期冬椿があっている。やはり寒くならないと冬椿の感じが出ない。でももっと寒くなると寒椿になる。 1月はやはり寒椿になる

空き家の庭は大きな石をっているから立派である。その塀に冬椿が咲いている。だからあそこは庭は価値があり残せばいいとなる。でも家には価値がない。何か古民家などと違って家自体には価値無いと思う。でも庭には相当な価値がある。何かその石が組み合わせられて力強いのである。

constraction of stones
mighty united one
the garden in winter 

いつもよく道で変わり映えしないが黄色いバラが咲いた隣に赤いバラが咲いていた赤い椿が咲いていた。それを毎日のように通っていても見逃していたのである。人間は意外と身近なもの良く観ていないのである。そこが人間の盲点でもあった。灯台下暗しになるのである。

冬菜という時前の畑にそれがある。昔だったら遠くから野菜でも果物など入ってこないからそうして家の前であれ近くであれ冬の間でも野菜をとって食べることになっていた。でも今なら野菜すら外国からまで入ってくる。だから昔の人は冬だと言った時の感覚は今の感覚とは相当違ってそれは冬の間でも命をつなぐ食料ともなっていたからである。今はどこからでも食料が入ってくるからそういう感覚も失われたのである。

家があった所に一つの木の根が残っている。その家がなくなってからもまた歳月が過ぎた。根っこだけが一つ残っていたのである。そこに誰が済んだかも分からなくなってしまったのである。
空家が1000万軒になるとかそれをどうするのか、そおれも大問題である。何か利用するにも所有者がいるからめんどうになる。でも使わない家や庭でも何か利用しないともったないのである。そして建物でも傷んでくる。もう使わないとすると所有する権利もなくなるともなる。

庭の冬の薔薇の花片が二つほど残って散っていた。やはり花でも散りたくないのかもしれない。それはまるで陋習のしわくちゃのおばあちゃんのようにも見えたのである。あとは葉牡丹を買って植えた。やはり冬には葉牡丹があっている







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