2023年12月09日

お金の賢い減らし方―大江英樹の批評 【老人は共感する本ーただしある程度金の余裕がある人】


お金の賢い減らし方―大江英樹の批評

【老人は共感する本ーただしある程度金の余裕がある人】

●紙幣であれ貨幣であれ何なのか?

この本は金を増やす本はいくらでも出ている。でも金を減らす本はほとんど見かけない。人間はいくら金があっても金を増やしたいと思う。また人間はいくら金があっても減らしたくないのである。それはケチというより人間の心理なのである。だから金を減らすということは大きな金があるにしろ多少のお金があるにしろしたくないのである。それで金がタンス預金などで回っていかないから経済が停滞する。だからお金を減らす減らし金をもっと世の中に回すべきだとしている。お金は天下の回りものだという時それも同じことである。

そもそも金というのは紙幣というのは何か分かりにくいのである.貨幣物々交換が面倒だから生まれたというのは違っていると言う。紙幣は借用証書用の借用証書だとも言う人もいる。金の解釈はさまざまにある。なぜ紙切れなのに価値があるのかとなればそれ自体すでに紙幣というのは本当に紙切れになることもあるし実際にそうなったこともある。
だから今盛んに預金封鎖が行われるとか紙幣が紙切れになるとか言われるのはそのためである。銀行に貯金してでも利子はなく増えない。物価は上がり金の価値は低下している。物の価値が上がるという時ただの紙切れの紙幣の価値は下がる。本当の価値は物にあり紙幣は実際紙切れなのだから紙切れになってしまう。ただ小判とか黄金だったらばc貨幣自体に価値があるのだから紙幣とは違ったものなのである。

それで株というのは紙幣と違っている。

通貨というものはすべからくバーチャルマネーだと言えます
これに対して株式の方が実はリアルマネーなのです
なぜなら株式を持っているということはその会社の一部を所有していることになるからです
通貨という信用をベースにした実体のないものではなく会社の設備や人材という財産の所有権をという目に見えるものを裏づけにしているからです
お金の賢い減らし方

これがただ金を持っているのと貯金しているのと株を持っているということの大きな相違だとなる。会社の株を持つということは株主になるということはその会社の財産権と設備とか人材とかお所有しているということにもなる。ただ金を持っているだけではない。

●資本主義は自己増殖社会−金が金を生む

だから何か株式投資というのはギャンブルだとか言うが実際は違っている。株式投資というのはその会社のことをよく理解していなければできない。でもそれが複雑であり素人でわかりにくいから証券会社とか銀行でもその会社を投資先を選んでもらっているだけである。でも本当は会社のことを理解してその会社の投資するということはその会社の経営者と同じだというのも分かる。でも様々な会社がありそれを理解することは難しいから証券会社とか銀行に頼んでしまうのである。

ともかく確かなことは資本主義社会が「資本が自己増殖する」社会だという時金でも常に金が金を生むということにならない限り成り立たない
だから高度成長時代は銀行に預けていれば利子が7%とか信じられない時代であった。その時銀行ではただ金を貸せばいいだけだったのである。いくらでも金を借りたいという人は会社があってそこから利子を取ればいいだけだったのである。その利子を貯金をしている人に回せばそれだけでよかったのである。でもそれがなくなると貯金しても利子がつかないということは何のために貯金しているかも分からないのである。

だからむしろある程度金ある人はそんなところにただ置いておいても金は有効に働かない。だから金を社会に回すということを言っているのだと思う.
ただかなにしてもそんなにただ減らすただ減らすだけで増えないとしたらいくら金があっても普通はそんなことをしない。それより今そんな金を持っている人は少なく70になっても汲汲として働かざるを得なくなっている。だからこの金を減らせというのはある程度余裕ある人に言っていることである。普通の人には人には関係ないかもしれない。ただタンス預金をしていても金は回らないことは確かである。

●お金は感謝のしるしにはなっていない

そしてお金は感謝のしるしだという時それを現実の経済活動ではそんなふうにはなっていない。誰もスーパーで物を買うにしてもただ値段を見ているだけでありそこにその野菜でありあれ果物であれ作った人など誰かも分からない。どんな苦労して作ったのかもわからないのだからどんな人が作ったのだからわからないのだから感謝のしようもないのであ。ただ値段だけを見ているだけである。ただ大工さんとか家の設備を作る人は直接家に来て対面的に関わるから感謝するということがあった。それは目に見えて目の前で仕事をしてくれた人がいたからである。でも物を買う場合そういうことはないのである。

そして感謝というとき例えば売る方にしても100のものを100で売れるより2000売れた方がいいとなる。例えば100円で買ってくれた人がいくら感謝してもそんなことは通じない。売る方にしてみれば200円もらった方がいいのであり感謝など必要ないともなるのである。第一貧乏人は果物でも高くなると買えないのである。もしあなたが貧乏だからあなたには安くしてあげますよとなれば買う人も感謝する。

でも現実社会ではそんなことは絶対にあり得ないのである。例えば金持ちには高い物でも売れる。でも別に金持ちはそれを買ったからとして感謝などしないのである。むしろ感謝してくれという方なのである。だから売る方では必ずありがとうと言っているのである。でももしかしたら金持ちには高くして貧乏人には安くしたりすればその貧乏人は作った人に感謝することは確かである。でも現実の市場経済活動ではそんなことは絶対にあり得ないのである。だから金は感謝のしるしだというのはほとんど成り立っていないのである

そもそも感謝といってもそれはあくまでも心であり直接に伝わることはない。そして現実の社会ではそんな感謝より具体的にその感謝を示すものを要求されるのである。それが金であり金を多くもらえば作る人は提供する人はそれが報酬だとなるのである。だから別に感謝などはよりは金の多寡で全ては決まってるのは現実社会である。ただ感謝するということが悪いことではない。ただ現実問題として経済活動でそういうことは通じないということであ。ただ著者が言っているのは金にある程度余裕があるのでそういうことを言っているのだと思う。

でも人間の心というのはこならず必ず具体的な行為となって現れる。例えば介護とかになると病人の世話で世話とかになると愛がないと簡単にできない。確かに病院では医者でも看護師でも体を診ているがそこに愛があるとはならない。だから看護師自身が家族のようにはなれないと言っているのである。家族なら確かに医療行為はできない愛はある。その愛が大事なのである。

その愛が病気とか介護になると必ず必要でありそれは欠かせないものなのである。例えば医療行為はできなくてもただ見守っているだけでも愛がそこにありそれは愛がない人にはできないのである。それを自分自身は家族もいなくなり痛いほど経験したからである。その人は私が手術する時ただそこに居るということさえ嫌っていた。は何もしなくてもいいのだがいることさえ見守ることさえ嫌がっていたのである。

その人には全く愛がなかったからである。私のところに来た人は介護に来た人は全て何の愛もなかったのである。ただ金がほしいというだけの人だったのである。ただそれは実際は恐ろしい事だったのである。つまり愛が人間愛がないとしたらもう関わるべきではないとなってしまう。つまり人間の本心というのはどこかで必ず現れてくるのである。それが恐ろしいことなのである。だからダンテの地獄篇でもまさに人間の本心が現れた世界でありそこが地獄なのである。その地獄を自分は経験したのである。それはまた自分と自分の家のカルマでもあったとなる。でも実際はこの世こそ地獄なのである。その地獄を経験したのである。

とにかく感謝するということは大事なことである。それは必ず何らかの行為となって現れることがある。何か金が払えないとしても物をもらったとき感謝すればそれをいつか何かその人に行為となって現れる。何か困ったときやはり今度は助けてくれる人になるかもしれない。だから私は感謝を否定しているのではない。ただ現実経済活動でそうした感謝ということが無視されているというだけである。

●思い出が最後に残る価値となるのわかる

この本で思い出が一番価値あるものとなるというときそれは老人にならないとわからないことである。そして思い出というときたとえばに人ならやはり時間に比例しているかもしれない。一緒に長く過ごした時間お共有した人が一番思い出の人となる。それが家族の思い出である。でも家族でもやがて子供たちは育ってゆくそして家を離れてゆく人も多い。すると共に過ごす時間がなくなる。そうなるとやはりいくら家族でも疎遠となってしまうので

私の場合は特殊な事情で子供の時から60歳までも一緒にいたから特別二人の親に以前死んでからも依然としてそれが思い出となり忘れることができないのである。その理由は長い時間共に過ごしたことでそれが思い出となりそうなったとなる。だから夫婦でも熟年離婚っていうのは相当に損であるなぜなら人間には限られた時間しか与えられていない。すると長い時間を共にした妻でも別れて60過ぎからまた誰かと近しくなりということが難しくなるのである。

その最大の理由は人間はそんなに時間は与えられていないということである誰かと一緒に過ごすにしてもそれは極めて限られた人であり多くの人と時間を共にするということはできないのであるできないからである。だから時間の価値というのはお金の価値よりも大きいものだったともなる。なぜならもう時間は取り戻せない。青春時代もう二度と帰ってこない老人は金があっても病気になったでしたら何もできなくなってしまうのである.そして人間は何かをするチャンスを常に逃してそのチャンスにもいろいろある。勉強するチャンスとか旅をするチャンスとか善行するチャンスとか金を得るチャンスとか恋愛するチャンスとか友情を作るチャンスとかさまざまなチャンスがありそれを逃しているのである。

だから留学などは金がかかるからしないしないとかしているとあとでできないってその留学の体験というのは相当に価値があるからである。つまりこの本でも言っているが体験会見することがもっとも価値あることなのである。その体験した思い出が価値あることだと老人には否が応でも分かるのである。なぜならもはや老人は体験ができなくなるからであるいくら金があっても過酷な外国旅行とか他の事でも登山とかそうしたことはできなくなる。ただ過去に体験したことを思い出すだけになってしまうのである。








posted by 天華 at 17:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題
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