地名は方角地名が基本‐相馬藩の妙見信仰の由来
●東(あずま)の由来
古代におけるツマという語のこうした用法は、アヅマにもまたその対偶項が存したことを暗示する。むろん大和を座標としての話だが、一方の端がアヅマなら他方の端をなすのはサツマだという関係になるのではなかろうか。ヤマトタケルの物語で、クマソとエミシの征討のことがサツマとアヅマのこととして対応するかのように語られているのも、両者のこうした相関を暗示する。さきに宇宙的方位における東と西、大和と出雲の対立にふれたが、空間も同質ではなく、大和を中心とするヒエラーキーがそこに存したといっていい。
西郷信綱は「古事記註釈
地名で一番多いのは方角地名である。東西南北と名付けた地名が多い。大きく方角地名となるとき世界では東と西に分かれる。東は東洋であり西は西洋である。東洋文明と西洋文明にも別れる。
日本でも東西に別れる。その分かれ目が関ヶ原でありそこで家康の東軍と石田三成の西軍は戦ったことでもわかる。天下分け目の戦いがそこでおこなわれた。関ヶ原から東が東でありそこは日本から見れば東西の分かれ目だった。ただ東というときここに述べられているように妻だとするときそれは端の意味であり中央から見れば端になる。そもそも妻というときは端に居ると言う人にもなる。
方角地名を見る時大事なのはどこがどこを中心として見ているかである。日本だったら大和【奈良】を中心にしてみているからその端となると東【あづま】になり薩摩【さつま】となる。例えば南相馬市だと相馬市に城下町がある。だからその相馬市が中心でその南にあるということで南相馬市になった。またもともとは最初に相馬市の城が作られてその北にあるということで鹿島区は北郷となった。だから方角地名というときどこはが中心なのかを知る必要はある。
会津の喜多方は会津の城のあるところから北にあるから喜多方となった。でも明治以降は北が商業で栄えて多くの蔵が建った所で有名である。また南相馬市でも原町は鉄道の機関区となり相馬市より発展したのである。だから必ずしも相馬市が中心でその南にあるというだけの命名には問題があったかもしれない。他の人から見れば相馬市が中心であり南相馬市はそれに付随した脇役のように思われてしまうからである。
とにかく方角というのは移動するとき旅をするとき一番問題になる。例えば福島県の海側の浜通りから峠を越えて飯館村に行ったときそこでも方角がわからなくなったのである。そこは常に行っている近い場所である。それでも方角が分からなくなり迷ったのである。ただ日が昇る方向と日が沈む方向があり日が昇る方向は東であり日が沈む方向が西なのである。だから周りが山に囲まれていれば日が昇る方向と日が沈む方向で方向を見る。
会津でも東山温泉がある。どうしてそこが東山になるのかわかりにくい。また京都でも東山となれば陽の昇る山であり東山というだけで何か明るいイメージにもなる。でも会津の東山となるとあこがなぜ東なのかわからないとなる。だから方角は山に囲まれているとまたわかりにくくなる。
●世界でも方角はさらにわかりにくいくなる
これは世界でもそうである。だからアメリカのカリフォルニアの海岸の鉄道で走っているとき海が見えるのだが太陽は海の方に沈んでゆく。それも不思議な光景だった。なぜなら私の住んでいる浜通りは常に太陽は海から昇ってくるからである。
でもあの太平洋でもアメリカのカリフォルニアの海岸から見えるのは太陽は海に沈むのである。つまりそこから見れば西になるのである。だからこそ西部劇ではアメリカ開拓の西に向かうのでありその西に向かう先がアジアになり日本にもなるのでは。だからこの方向感覚というのは世界でも日本でもその近くでも分からなくなってしまうのである。その方向が分からないととんでもない方向に向かって迷ってしまうことになる。
だからこそ方角のことが移動するためにわ確実に知らないとそれは死にも結びつく。それでなぜ北斗七星信仰までになったかというとそれは北極星が常に北にありそれが方向を示すからである。北の位置を知るということはそれでできるから信仰までにもなったのである。相馬藩も妙見様信仰は北斗七星信仰である。それは大陸から始まったものであり日本に移って日本でも信仰するようになったのである。
なぜなら大陸では遊牧民がいてその人たちは大草原を常に移動する人たちだから方向を知ることが大事だから北斗七星信仰が生まれたのである。また砂漠でも方向は知ることが大事であり方向が誤ると死ぬこともあるからである。つまり方向を知るということは生死に関わるということなのである。それは海の航海でも同じである。ここでは何か方向の目印となるものは無い。すると星が目印になるのである
道教に由来する古代中国の思想では、北極星(北辰)は天帝(天皇大帝)と見なされた。これに仏教思想が流入して「菩薩」の名が付けられ、「妙見菩薩」と称するようになったと考えられる[6]。「妙見」とは「優れた視力」の意で、善悪や真理をよく見通す者ということである
信濃から関東・東北にかけての牧場地帯に多く見られる信仰で、「七」を聖教とし、将門伝説とは関係が深い[12]。 北斗七星の内にある破軍星(はぐんせい)[注釈 2]にまつわる信仰の影響で、妙見菩薩は軍神として崇敬されるようになった。
軍神となった妙見は一族を強力に守護する氏神とされ、一族や家臣が新たに城や館を建てる際には妙見社を建立しました。千葉氏の所領であった地域の城跡内もしくは近隣には必ずというほど妙見由来の寺社が見られます。『妙見』は仏教では菩薩ですが、天の中心にあって星々を従えていることから神道では『天之御中主尊(あめのみなかぬしのみこと)《北辰妙見尊星王(ほくしんみょうけんそんじょうおう)》』となります。
●エジプトのナイル川の西岸に沈んだ太陽
ただ本当にこの方角を知るということは難しい。例えばエジプトで日が沈んでゆく。それはナイル川の西岸になる。そこに夕日が沈んでゆくとき何とも言えないものを感じた。 3000年もの歴史があるエジプトに背後にピラミッドがあり太陽はナイルの岸に静かに徐々に輝き沈んでゆくのである。それはまさに3000年の
エジプトの歴史を象徴して太陽は沈んでいったのである。それは歴史と関係してただ太陽が沈むというだけではないものとなっていた。それは大阪城でも春に太陽が輝き沈んでゆくとき同じような感覚を持ったのである。それは歴史をと自然が一体となり大阪城に栄えた秀吉の城がありそれが春の日の太陽はそこに輝き沈んでゆく。そこに自然だけではない歴史が反映して何とも言えぬ感懐を抱いたのである。
ともかく人間は方角を知るするということが基本的に命にも関わることでありそれが大事だからこそ北斗七星信仰を生まれたのである。
遣隋使の小野妹子が、持って行ったとされる書簡が「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)で始まります。
現代語訳すれば「日が昇る国の天子(国王)から、日が沈む国の天子へ
これにしてもただ日が昇るところは日本であり日が沈むところは中国になるからそれがやはり基本になるからそういっただけであり別に中国を貶めるということではなかったのである。また韓国から見れば日本海は東海になるのである。日本から見れば太陽は日本海に沈む。でも韓国から見れば東海となり日の昇るところなのであるその相違があまりにも大きいのである。感覚的にまったく逆にもなってしまうからである。このように地理の感覚というのはただ地図を見ただけでもわからないのである。どうして地理を知るかとなるとそれはその場に実際に立って実感しないとわからないのである。そこに常に驚きがある。
【歴史(相馬郷土史など)の最新記事】