2023年11月24日

江戸時代の相馬市山上村は他の村より進歩して栄えていた? 【江戸時代の馬頭観音の碑が語るもの】

江戸時代の山相馬市上村は他の村より進歩して栄えていた?

【江戸時代の馬頭観音の碑が語るもの】



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特に市原は房州往還、久留里道、伊南房州往還、大多喜道と人馬が行きかう街道が多く、馬を飼って農間稼ぎに年貢や薪炭の輸送をする農家が多かったため、馬頭観音が数多く祀られている。さらには村上の道標のように馬頭観音と道標をかねたものがあわせて20基も確認されている。

市原市の郷土史46.馬頭観音について

大村でも産業の発展と同時進行のように馬が、農業、林業、運輸業などで大活躍しました。そのため、江戸時代中期頃から徐々に馬頭観音が建立され始め、明治、大正、昭和(主に戦前)時代に多数作られました。

江戸も中期を過ぎると、馬頭観音は、馬を守り、死後はその菩提(ぼだい)を弔う観音様であると考えられるようになった。 農民や馬の仲買人たちは、倒れた馬を埋めた場所や道の辻に、馬の霊を慰める馬頭観音を建てた

文久3年(1863)後ヶ谷村明細帳です。

一、馬持ち百姓は持山に出て、木樵、炭薪にして、
・或は、青梅、飯能、五日市、八王子等で、炭薪を買入れ、
・馬附にして、夜四ッ時(午後11時)から江戸に出かけ、
・御屋敷様に納め
・翌日は夜五つ前後(午後8時)に立ち戻り
・駄賃稼ぎをしています。
 と記されています。

 江戸街道(現・青梅街道・新青梅街道)を中野や新宿で妨害に遭ったりしながら、夜通し馬を引いて歩む姿が浮かびます。

馬頭観音をまつった背景(東大和市


非常蓄穀は一斗六升ツツヨ一戸一年の積トシ4ケ年蓄積ス【村倉】に二つあり。
大小一六書舞秣薪炭頗る数多なり。養蚕は頗る気込みあり。進歩他の村より超越する覚ゆ。紙を製する者多し
殆ど毎【三〇戸】の従事する所トス
大須賀□軒巡村雑記―初代相馬郡長大須賀次郎が着任早々郡内各地を巡回したときの記録である
人数329人 戸数58軒 馬60疋 山上村
人数256人 戸数46軒 【97人足軽】馬52疋 入山上村
弘化4年未戸数人別帳 宇多郷

山上村が二つあり入山上と山上村である。非常食として穀を貯える村倉が二つあり四年間分を蓄積していた。これはかなり多いのではないか、秣【まぐさ】は馬の飼料であり多いとあり薪炭も多い。。
養蚕も盛んで紙を製する者が30戸なると山上入り山上村で約百軒あり三割が紙漉きに従事していた。それで紙漉き沢という地名がある。紙漉きには水が欠かせないからである。
また薪とか炭とか紙でも運ぶとなると馬が必要になる。それで山上村馬を飼っている家が多かったのかとなる。江戸時代とか戦前とか見るとき大事なことは車がないから運搬となると簡単にできない、それで馬車で運ぶから馬が多かったとなる。また農耕にも使ったし野馬追の為に相馬藩では馬を飼う家も多かった。今でも野馬追祭りのためにだけ馬を飼っている家が結構あるからだ。
戦後でも横手の梨農家が梨をリヤカーではこんだという、相馬市まで15キロもある。往復30キロになれば一日かかりにもなる。

だから

馬持ち百姓は持山に出て、木樵、炭薪にして、
・或は、青梅、飯能、五日市、八王子等で、炭薪を買入れ、
・馬附にして、夜四ッ時(午後11時)から江戸に出かけ、
・御屋敷様に納め
 と記されています。

 江戸街道(現・青梅街道・新青梅街道)を中野や新宿で妨害に遭ったりしながら、夜通し馬を引いて歩む姿が浮かびます。

江戸となると夜も眠らないで運んだのである。それだけ運ぶことは大変な苦労だったのである。

とにかく山上村で注目したのが馬頭観音の碑でありそれが安政時代のものだったことである。馬頭観音の碑は大正時代のものが一番多い。江戸時代のものはほとんど見たことがないのである。それで注目したのである。ではなぜ山上村にあったかというと相馬市の城下町に運ばれたからだとなる。そこに大きな消費地があったからである。八王子近くから江戸まで薪炭を運ぶとなると夜も運んだとなるとそれdけ運ぶには労力がかかったということである。

山上はまだ近いから運ぶことはそれほど苦労しなかったかもしれない、ただ山間であり田にする耕地が少ない、塩手山の麓などでもそもそも塩手とはしぼむからきているらしく本当にそこは土地が狭くしぼんでいる地形なのである。だからここに入った人はまず田にできる土地を見て塩手となづけ塩手山と名付けたのである。

なぜ馬頭観音の碑で安政のいものが山上村にあったのか?この疑問からその土地の歴史に興味を持った。あとは私は地名に興味をもったからその方面から郷土史であれ歴史を探る
つまりなぜ馬頭観音の碑で安政時代のものが山上村にあったのかく?やはり山上村から紙漉きでも行われ薪炭とか運ぶものがあり馬で運んだから馬頭観音の碑が建てられた。それは江戸時代がからめずらしいものとなった。

進歩他の村より超越する覚ゆ。紙を製する者多し

紙漉きをしていればやはり他の村とは違っていた。でも石神村でも紙漉きが戦前の昭和にも行われていた。そこで深野村に豪倉というバス亭があり米などが貯えられた。それは実は昭和天皇が奨励したものだったのである。山上村では村倉が二つあり四年分も貯えられていたというのは心強いものだったとなる。
山上村は意外と江戸時代から見れば豊かだったというのは意外だった。山上にコンビニがあったがなくなり丸森に行くのに食料を買えなかった。福島中央道ができて車が通らなくなったのが影響した。他でも車が通らなくなりやめた店もあるし石戸村の食堂でも客がめっきり減ったと嘆いていた。ただ自転車で行くのには車が通らないから安全だとなる。


嘉永かえい1848年〜1854年
安政あんせい1854年〜1860年
文久ぶんきゅう1861年〜1864年
元治げんじ1864年〜1865年
慶応けいおう1865年〜1868年




posted by 天華 at 18:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)
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