2023年11月23日

冬の日に相馬市の宇多川を上りから丸森へー金山―大内を経て帰る 【俳句短歌の連作】


冬の日に相馬市の宇多川を上りから丸森へー金山―大内を経て帰る

【俳句短歌の連作】

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空家に郵便箱がありなんとも淋しい、郵便が来るのをまだ待っている
とにかく空家が目立つのである

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相馬市の熊野神社

【塩手山】

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佐藤氏の家ニ軒が並んでいる

【山上】

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安政だからめずらしい

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【丸森へ】

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疲れたので寝そべった石

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ここにまだ一軒家が残っている

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この石もいい石である

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ここは五反田である




牛のいて鶏鳴くや冬の朝

残る柿空家一軒郵便箱

【相馬市へ】

紅葉濃く熊野神社の杉太し

【塩手山】

山頂の紅葉に朝日塩手山

塩手山降り来る人や冬桜

佐藤氏の二軒の家古り冬に入る

【山上】

物倉に我がまた来たる冬に入る

【滝平】

紅葉散る滝のひびきて巌かな

滝響きあまた木の葉の朝に散る

滝壺の水底見えて冬の朝

【丸森へ】

古田口なお一軒の家冬に入る

バス停に地名をとどむ冬の菊

短日や心に残る分かれ道

五反田と丸森あはれ短き日

金山城侍守る冬の月

金山に菓子店ありや冬の菊

峠越え相馬へ行くや冬の月


干し柿に大根干すや山上に家そ古りしや蔵のありしも

山上に馬頭観世音の碑の一つ安政とありぬ冬の日さしぬ

寄りかかる石の一つやその石の心に留めて冬の日に行く

丸森の川に大きな石一つ動かざるかな冬の日暮れぬ


相馬市にある熊野神社は相当に古いと思う。熊野神社は全国で3000から5000もあるという。蟻の熊野詣と言われたようにそれだけの人が熊野に参拝したということである。ここで杉でも太いのはそれだけ古いということをもう語っている。でも何かこの神社は忘れられたような感覚である。

塩手山には冬桜が咲き紅葉に染まっていた。この山は低い山であり簡単に登れるがまだ上っていない。その麓に佐藤氏の家が二軒並んでいる。その家はかなり古いと思う。福島市にある医王寺の義経の従者にあたる佐藤氏の系統である
また佐藤庄司の系統でもある。

月の輪の渡しを舟で越えて、瀬の上という宿場町に出る。源平合戦で義経の下で活躍した佐藤継信・忠信兄弟の父、元治の旧跡は、左の山のそば一里半ほどのところにあった。

飯塚の里、鯖野というところと聞いて、人に尋ね尋ねいくと、丸山というところでようやく尋ねあてることができた。

「これが佐藤庄司の館跡です。山の麓に正門の跡があります」など、人に教えられるそばから涙が流れる。
また、かたわらの古寺医王寺に佐藤一家のことを記した石碑が残っていた

奥の細道に記されている。相馬市一帯は中世ではもともと佐藤氏が支配していた。そこに相馬氏が進出して支配したのである。佐藤氏の方が古いのである。

山上にあった馬頭観世音の碑は安政とあったから古い、なぜか
馬頭観世音の碑はいたるところにある。でも不思議に江戸時代のものはほとんどない、それはなぜなのか、やはり江戸時代までそんなに馬でも使っていなかったからかとなる。それと庶民が墓を作れなかったのは貧乏だからともいう。確かなことは馬を使って運搬したというこがそんなになかったからだとなる。だからここにある安政の馬頭観世音の碑は貴重である。

そこから滝平の方に向かった。途中に物倉というバス停がある
滝平は結構水が流れこの辺ではめずらしい。おりしもその滝が轟き紅葉が木の葉が散る。滝壺は澄んでいて水底が見えた
そこから松が房ダムに向かった。そこは坂が続くので苦しかった
大きな平たい石がありそれによりかかる。それでそかが【寄りかかる石】とも名付ける。松が房ダムから下ると古田口というバス停の標識があり一軒の家がまだある。空家になるのが多いがここはまだ残っている。

そこから山間の川を下った行ったがここは結構長い道のりだった
途中川の中に大きな石が目立った、すると大石という地名にもなる
それから国見宿舎の阿武隈山荘がありそこは今は宿泊できない、風呂には入れるという、そこはキャンプ場にもなっている。車専用でもある。そこにおばちゃんが話していた。そこで語られたの津波のことだった。何か原釜の人で津波の被害にあって丸森に移り住んだという。丸森も水害の被害が大きかった。丸森は森の町であり川が山から細くてもいくつも流れてくる。でも一旦大雨になるとそうした小さな川でも大量の水が流れてきたのである。
山津波というのもある。その被害も大きかった

そこを出て丸森な街へ向かった。途中分かれ道がある。必ず分かれ道がありそれが心に残る。この道はどこに行くのだろうと想像するからである。だからこそ分去(わかれさり)という地名が多いのである。でも車時代になるとそういう歩くことで感じたものがなくなったのである。そこで失われたものがある。それは旅がなくなったのである。車では旅にならない移動なのである。ある地点までの移動なのである。そこで車用に作られたキャンプ場に行くとなる。

五反田という地名が多い、五反百姓とも言われいかに貧しかったかを物語っている。もう陽も沈んでゆく、3時ころになると陽が山に沈みかかる。だからすぐに暗くなる、自転車は暗くなると危険なのである。丸森は街の中心部から外れた金山とか大内が結構大きな町なにである。だかろそこにお菓子屋がある。このお菓子屋はどんな辺鄙な町にもあう。それはなぜなのかお菓子屋そこでしか作れなお菓子を作っている。私の近くでもお菓子屋があカステラがうまかった。それはそのお菓子屋でしか作れなかったのである。それが強みでなりたっていたのである。つまり自家生産してそれがその店でしか作れないから未だに自営業として成り立っているとなる。その他はスーパーとかで個人商店は消滅しつつあるからだ。なにかオリジナルなものがないと商売もつづかないとなる。

金山城には寄らなかった。暗くなりつつあったからである。山城は魅力がある。自然と一体化しているから魅力がある。そして金山城は一時は相馬藩に属していて相馬氏が城主にもなっていた
その石垣は古くその形が残されている。
それから相馬市に行くには峠を越える。それが長いから苦しい
その時真っ暗であり自転車は夜は危険である。でも道は知っているから安心だったが途中相馬市にでて道に迷ったのである。
ただ下り坂になっていればやはり平地の相馬市街に向かっていたのである。冬といても暖かかったから寒さわ感じなかった
自転車で日帰りできるのは浪江とか飯館とか山元町から丸森までである。その辺までが一体感ある地域だとなる







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