情報社会の変化ーマスコミからインターネットへ
【相馬新報の意味するもの】
●マスコミからインターネットへの情報社会の変化
社会が変化するというとき、現在の特徴は情報化社会になったということである、この情報化社会というのは今までにないことであり、なかなか理解できない、この情報化を促進したのはインターネットである。
この変化の一番大きな点は個人でも、新聞社出版社テレビ局ともなる、それが個人でできるということが画期的なことだったのである、 これをわかりやすくみれば今までの情報社会というのはマスコミュニケーションであり、マスコミとはマスは大衆を相手にすることでありそれでマスコミが巨大な力を持ったのである。
テレビを通じて国民へ1000万以上の人がそのテレビを見ているということがどれだけ力を持ったかということである、だからこそテレビに出ただけで名前が売れて、それで国会議員になった人も結構いる、中身がなくても、名前が売れていればそれで良かったのである。それで芸能人でも、国会議員にもなれたのである、それだけマスコミの力が六局のテレビ局がどれだけ力を持っていたか分かる、
でもこの独占された情報世界から、インターネットへの移行は情報環境変えてしまったのである、最初は通信というのは子供の遊びのようなものだったのである。文字をやり取りして、話し合うをするということが何か理解できなかった、でもそれが実はインターネットの普及する始まりだったのである。
●個々人がメデアとなり発信する時代
つまり、個々人が、テレビ局や新聞を通じて、発言するのではなく、そうした媒体、メディアを通して発言するのではなく、じかにに個人が発言すると言う場をつくったからである。でも依然としてそこは制限された場であり、富士通のニフティなどでは、シスオペなどがいて自由に発言できなかったのである、それが急激に世界的にインターネットが普及したのである。特にスマホはパソコンがなくても、その代わりになるから、それでさらに、加速したのである。
世界的に見ても時代的に見ても、このインターネットの環境の変化が大きなものだった。つまり世界が情報化社会になったのである。は今までのマスコミニケーションとは違ったものなのである。 これまでは政府から認められた。認可された6局のテレビ局しか放送できなかったが。今や簡単に個人がyoutubeのようにテレビ局になるのである。この変化も大きいものだった。マスコミュニケーションとは認可された六局の情報の独占だったのである。
ニュースでもそこから知ることができなかったからである。そうするとその六局で国民でも大衆でも情報を操作することができる。それは巨大な権力を持ったということである。誰がテレビに出すか出さないかを決めることができるし、何を報道するか報道しないかも決めることができる。 でも自由に発言できる場ではない。NHKでもそうでありNHKが発言する人を選ぶのである。だから必ず偏っているのである。
不思議なのはインターネットでは誰でも発言できる。放送できる。ただ問題は発言できても放送できてもそれが今までのテレビのようには見られたりしないのである。見られないかったり読まれなかったりするのが普通なのである。そこで認められることは容易なことではないのであ。なぜなら1000万人の人間が自由に発言したりテレビ局になったりしたらどうして見るのか?そこでは全く見られないし読まれない人も出てくるのである。そんなに多くの人をチャンネルを見て回ることが出来ないからである。
●情報とはなになのか
そもそも情報とは何なのか?それは常に社会でもあった。例えばどこかに鹿がいてみんなに知らせて狩りをするとかである。その情報伝達は人を媒介としてあり人から人へ伝えることが普通だった。情報とは噂話のようなものでもあった。噂話だと人から人に伝えるからである。伝えるうちにそれが誇大化して真実とは違ったもになる。
でも情報を伝えるときこうして噂話のように個人から個人に伝える。そこにはどうしても大勢に伝えるということはできない。だから情報というのは限られたものとなっていた。知ることは狭い範囲のことである。極めて限られた情報しか得ることはできなかったのである。 特に閉鎖的社会で村で生きてきた日本人は外の世界と関わらないから得られる情報も限られていたのである。
でもそういう世界ではフェイクニュースとかに騙されることもなかった。情報というのは狭い範囲だと実際にその場に立って確かめることもできるからである。それが情報が世界的になれば。とてもその情報を調べることもできないし。それで騙されるのであ。それを証明したのがイラク戦争での一羽の海鳥が油まみれになっていたことである。それが作られた映像だったのである。別に周りは油まみれになっていなかったからである。だから、この一枚の写真を見て、イラクは酷いと世界中の人が思った。
一枚のが真でそれだけ影響があったのである。それはとても世界となれば、その場に立つこともできないのだから。その一枚の写真から判断するからそうなったので。
ただ、ここで言えることは、情報が世界化すれば。マクルーハンの言うように世界で起きたことが隣の村で起きたように影響するということである。 日々世界の事件が報道されるが、その場に立ってみることはできない。だからどうしてもそこに誤解が生じるのである。
情報環境で変わったことはテレビでも六局だけが1000万以上の人間に報道する時代は終わった。誰でもテレビ局にもなれるし新聞社にもなれるし、出版社にもなる。それも誰でも簡単にできるので。プログなど簡単に誰でもできる。でもそこに写真も載せられるし、文章も載せられるし情報の蓄積もそこでできる。だからこんなものでも個人でメディアを持つということがどれだけ力を待ったかを知る実感したのである。ただ、これが見られるのは最高に難しいということである。六局をみんなが見ていた時は集中して1000万人の人間が個人が放送するようになったらとてもそこで見られるということは不可能にもなってしまったのである。
●相馬新報の意味するもの
そもそも情報というものは何かということである。人間が狭い範囲で生きていれば。情報は常にその場に立って確かめることができる。私自身が相馬新報というのをプログで書いているがその場を俳句にしたり報告している。
でも全国放送でもないから全国の人を相手にしているわけでないからその場に行って確かめることも可能なのである。写真に撮ったものでも、その場に行ってじかに確かめることができる。すると実際見たものと違うとも感じることができる。
このことが今までの情報社会とは違っているのである。 何か狭い範囲だと?その道端にあるであれ小さな石ころであれそこに関心を持つ。一軒一軒の家にも関心を持ち一人一人の人間にも関心を持つ。マスコミだと芸能人とか有名人しか相手にしない。だからそういう人たちは大衆でも関心があり、知っているからである。
だから最近週刊誌を見てもテレビを見てもつまらないと見る。そうしたマスコミの相手にするのはみんなが1000万人以上の人間が知っていることであり、興味あることである。芸能人というのは、いつでもテレビで出ているから親しみがあり。そのために関心がある。でもそれはマスコミの時代からそうなっていたのである。マスコミを大衆を相手にするとそうなる。
でもそれもつまらないと思うようになった。これはやはりインターネットが生まれて情報環境が変わったからある。大衆を一千万とかを単位にすれば常にそうなるとみんなが関心あるものをとりあげる。するとみんな同じものとなり週刊誌すらそうでありつまらないと見た
●一軒の自転車屋の死が報道される意味
例えば近くの最近死んだ駅前の自転車屋の星淳一氏のことを偲び私は記事にした。そんなこと普通はおそらく相馬地域でも関心にならない。でもこの地域に住み、自転車を持っている人は関心を持っているのである。そしてなぜか不思議なのは駅と一体化して駅に降りると死んでもその人が迎えに来ているような感覚になったのである。
その駅前の自転車屋は駅と一体化していたのである。だからこういうことを報告するのはインターネットができる。全国放送のテレビ局で放送したところで誰も観ないからである。福島県の放送局でも報道しないでもでも地元の人にとっては関心あることなのである。
情報と言うのは、実際はなんでもじかに見て、その場に立って、その人とじかに会うということこそリアルなものとして伝わるのである。マスコミュニケーションでは何千万人も相手にしていたらそんなことはあり得ない。だから。何千万人もが知られるものとして、芸能人やスポーツ選手やそういう人たちを報道することになる。
でも最近そういう報道を見ても自分とはなんか何の関係もないとなり。つまらないと思うようになった。それより近くで起きた事件があり。事故でも必ず関心をもつのである。それは身近に感じるからそうなる。あそこで事故起きたから危険だと感じるからである。
だから相馬新報というのも徐々に認識されて読者数もかなり増えた。 やっぱり地域でも知らないことがありそれを知り得るということはから出来るからである。
●文明の時代から文化の時代に―時間軸で見る世界
そして今文明という大きな枠組みから文化という時代になっている。また、東京一極集中から地方へ分散するという時代になっている。情報もまた同じなのである。東京一極集中から地方へ地域へ分散する。それは文化の時代となり。地域に根ざした文化の構築が課題となるからである。だからせまい地域だと一つの石ころでありそれに関心を持つ。そして石であれ木であれ山であれアイデンティティ化するのである。自己同一化してゆく。それは中世時代の回帰になる。
cultureはcultivateでありその土地土地を耕し掘りだすことにありからだ。
情報にしても狭い範囲だと常に現実にそれを見ることもできるし、触れることもできる。より具体的であるより身近でありそれはその人の生活にも直に関わってくるからである。
そしてまたマコミュニケーションと違うのは空間も狭いのだが時間軸で見ているということである。私のプログにしても、すでに20年以上書いているからである。すると20年前のことでも知ることができるのであ。最近隣の人が他に家を建てて移動した。そこが空家化して今は家も壊され更地になっている。
でもその時の写真が残っていた。大きな平たい石がありそこで奥さんが洗濯ものを干していたのである。そのとき、そこに生活があったのである。今は空き地になり何もない。何か暮らしがあるときその土地も家も活きていた。だからこそ原発事故の避難区域になったところは人が住んで居ないから人の暮しがないから死んだようになってしまったのである。 その写真にしても普通なら誰も関心などはない。でも私自身は隣にいたのだからいつも見ていたから関心を持っていたのである。でもその奥さんと一回も話ししたこともないのである
やっぱりこのようにプログは狭い地域でも時間軸で見るということが違っている。記録として時間軸で残されるのである。全国ニュースだったら、その場その場で消えて、あと継続されないのである。狭い地域だったらこのように継続して見ることができる。そこに何もなくなっても、かつては何があったと言うことを記録されるのである。だからそこに何か地域として意味を与えることになるかもしれな。
いずれにしろこのように情報環境が変わったということを知るべきである。テレビばかりから情報を得る時代は終わったのである。ただ、情報の量が莫大に増えた時。それを処理するということも不可能になってしま。ただ、リアルに情報を得るのは、やはり狭い範囲なのである。
田舎の冬の一日【写生俳句】
タグ:中世への回帰 情報社会の変化 マスコミからインターネットへ 文明から文化の時代 相馬新報の意味するもの 地域の報道 田舎町に自転車屋の死の報道 情報と何なのか 個々人がテレビ局に新聞社に アイデンティティ化とは
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