冬の菊の俳句連作【原町郊外から橲原の冬景色】
他の写真は失敗だった、でも近くだからまた撮れるからいい。
松の古り昔の街道冬の菊
街中の畑に日さし冬の菊
店一つ裏の通りや冬の菊
冬の菊五六軒の部落かな
冬の川流れ響きて一部落
養蚕の家なほここに残る柿
故郷や心に沁みぬ冬景色
冬の灯や近くの知る人あわれかな
午後の日を静かにあびて冬の菊老いて安らぐ場のあればよし
原町の昔の街道を通りそれから街の中を走りイオンに行き深野から橲原に出てきた。原町は相当に広い。だから裏通りにも店があり冬の菊が映えていた。ただそもそも通りがあっても店はなくなっている。
今回のテーマは冬の菊である。つくづく日本の文化は四季から作られている。ある人は日本は時間軸で生きる世界だという。それもそうだと思う、日本は島国でありすぐに海に出て果てる、道はなくなる。でも大陸は広大な空間を生きる。果てることなく空間が広がり道がつづく。だから広大な空間を征服することが歴史でもあった。空間を移動して果てに未だ見たことない新世界を見る発見することである。
日本はすぐ海に出て世界は尽きる。すると四季の変化明確でありその変化に生きる。だから日本人は季節に敏感であり季語が不可欠な俳句が必然的に生まれたのである。
橲原【じさばら】にでて立目石があり柿がなり養蚕した兜屋根お家がある。
何かそれが日本の原風景である。でもそうした農村風景は失われた。おそらく戦後十数年くらいまであった。なぜなら依然として農家が六割くらいまだ存在していた時代だったからである
私が一番不思議に思うのは高校まで蒸気機関車が走っていたことである。それが信じられないのである。いずれにしろ時代が変わると風景も変わる。だからその時代時代の風景がある一時代が過ぎ去るとその風景も変わりその時のことが景色でもわからなくなる。だから冬景色というとき農村社会のときは今とは違っている
その時藁葺き屋根であり兜屋根の養蚕をした家があり必ず干し柿をした家がありその前にわでわ農家の人が仕事していたのである。今はどうかといっても近代的な新しい家に住んでいる。だからどこが農家かもよくわからないのである。第一農家の人でも全体でも1割にも満たない生産量しかないのである。だから純粋な農家というのは実際は稀になっているのである。農家だけで働いている人は梨農家のとか花栽培とかである。そういう農家は全体から見れば本当に少ないのである。
とにかく冬は田舎に合っている。でも今年は確かに冬にはなったのだが周りの景色を見ると冬ではない。木枯らしだって吹いていない木の葉もまだ大して散っていない。だから落ち葉の道にもなっていない。紅葉でもまだちょっと色づいたくらいである。そして晩秋とか秋深むとかそういう感覚がなくなって冬になってしまっているのである