冬に入る―俳句連作−神の手に万物が結ばれる
この部分に言葉をいれると何かつながりあり俳句にもなる
物言わず万物硬く冬に入る
深々と万物硬く根ずくかな
石と石組まれ重なり冬に入る
石一つ隠され黙し冬に入る
冬に入る万物硬く結ぶ合う
冬に入り万物整い神ましぬ
一段と山の厳しく冬に入る
日本なれ山遮りて冬に入る
人の業休ま無まむ時や冬に入る
神の手に万物一つに結ばれる
神の手に万物結び冬に入る
ポトリかな時雨一滴人は死ぬ
今年は秋がなくなったというは確かに晩秋とか秋深むとかがなくなり冬に入ったことになる。でも冬になっても紅葉がようやく色づいたともなる。でも気候的には急に冬になったのである。だから季節の感覚が狂ってしまったのである。日本人は季節の感覚に敏感であり季節が変わるたびにやはり心も変化する。それで俳句という芸術は生まれたのである
冬は万物は休むときである。でも人間の活動は休むことがない。田舎だと稲も刈られて刈田になり季節の変化を感じる。でも奇妙なのは風力発電の風車は風に回り続けているのである。それは休むことはないということである。文明活動に人は疲れる。東京のような人ごみの中にビルの乱立する中に生活できると思う
私自身は東京で大学生活をしたりアルバイトしたりしていたことがあったが東京を嫌悪してで引きこもり生活を実に30年もしてきたのである。その時旅もしていたが日常的には家にこもっていたのである。そしてそこには人は見えず人とは接しず自然と一体化することをアイデンティティ化することをしてきたのである。
そしてそのような俳句とか短歌とか詩を作り続けてきたのである。ただこれは本当に異常なことであり家族に恵まれた結果だったのである。なぜなら家族は私を攻めることもなかったからである。でもそういう生活が自分の性格に性分にあっていたのである。
今でも自分は人と付き合いたくないし冬のように荒野のようにそこに誰も人もいない時心は落ち着くのである。そもそも東京のようなところで生活している人は精神的に既に異常化してしまうのではないか。そこから生まれるのは何かカルト宗教とか異様なものだったのである。まず芸術というのは東京からは生まれないと思う。あの華やかなルネッサンスが生まれたのは5万くらいの都市でありフィレンツェだったからである。そんな小さな都市であれだけの芸術が生まれたということは本当に驚きである。
人間は文明社会はバラバラの世界でありそこはもはや人間の感覚で総合的に見ることができない。人間はただ無数のパーツとなり機械の部品となり日日奴隷化されているように見えるのである。何かそこで確かに経済的には効果があり豊かにはしているかもしれないが精神的には実りがあるのだろうかとなる。
神の手に万物一つに結ばれる
all united one by God hand in winter
自然は神の手によって一つに結ばれている。でも人間の社会は文明社会は何によって結ばれているのかばらばらになった部品の集まりでありそこ結び合わせるものがない。もはや誰もグローバル経済のことなど理解できる人などいないのである。だから株などは誰もわからない。そこは巨大な世界のギャンブル場でありだからこそ今覇権国であるアメリカの支配階級は世界の富を集めているという陰謀論にもなるのである。それはあまりにも巨大でありどのように繋がりがあり結ばれているのかも誰も知りえないからである。
ともかく私の性分はそこに人がいないことであり荒野が広がり自然と一体化するとき心が安らぐのである。そもそも人に何かまともな人間もいないのである。田舎では人からの刺激に欠けていることは言える。ともかく冬というのは自分は好きである。また老人になった結果まさに老人は冬なのである。冬が一番似合っているのである。