2023年11月11日

漁業権は大きな権利だったー漁業者が反対すると原発は建てられなかった ー女川の原発の場合


漁業権は大きな権利だったー漁業者が反対すると原発は建てられなかった
ー女川の原発の場合

漁協は原発建設につながる漁業権の放棄を認めず、およそ10年にわたり着工は延期となりました。

しかし1978年、漁協と東北電力の間で漁業の補償協定が結ばれ、漁業権の一部消滅が決定。事実上、原発の建設が認められることになりました。

「機動隊が盾で殴るんだよね」“原発頼み”の町が強いられた50年前の分断と、迎える再稼働のとき

漁業権の問題を追求してきたが女川原発の場合は漁業権を盾に漁業者が原発を作ることに反対していた。つまり漁業者の許可がないと原発は作れなかったのである。だから漁業権というのは意外と大きな権利だったのである。それで原発を作るにしても漁業者の許可がないと作れないからそのためにこの辺では手厚い補償金を原発事故前ももらっていたのである。総額も大きく原発御殿建ったとか噂された。それは漁業者の周りの人が言っていたのである。

みんなが知っていたわけではない。自分自身も知らなかったのである。何か烏崎港からイシガレイとか売りに来る人がいた。金ににならないとか嘆いていたしインターネットでも生活が苦しいと業者の人は報告していた。だから漁業者も生活が苦しくて困っているという風に見ていた。
でも烏崎港となると原発ではなく火力発電所ができたときやはり補償金をもらっていたのである。それで高価な着物は売れていた。まだその当時ヨーロッパ旅行する人など相当な金持ちだった。なぜなら飛行機代だけで五十万くらいしていたからである。烏崎の人はヨーロッパ旅行に団体で行っていた。それだけの補償金が入ったということである。でも別に火力発電所の場合は原発事故とは違って被害もないのだから関心もなかったのである。

でもまた漁業者は原発建った時さらに補償金をもらっていたのである。から烏崎港になれば二重に補償金をもらったということにもなる。つまり漁業権というのは大きな権利だったのである。
だからここで女川で漁業者が漁業権を盾に反対したために十年間も延期されたのである。これはやはり漁業者でも危機感を持って対処していたからそのことはこの辺とは違っていた
なぜそうなったのかといえば宮城県とかは漁業が盛んであり水産業が盛んであり福島県の浜通りとかがと比べれば十倍もの漁獲高の違いがあった
それで原発で汚染されると相当な被害を受けるという危機感を持っていたから反対したとなる。

福島県の場合は漁業はお零細でありそれほど盛んではない。そのために原発に反対もしなかったともなる。補償金をもらって方が楽だとなった。
ただ問題なのは漁業権というのはそれだけ大きな権利があり権利があるということは逆に責任もあったということなのである。それを原発事故後に問われたのである。なぜならここで漁業者が漁業権を盾にして反対した結果十年も作ることは延期されたからである。漁業者が漁業権を盾にして反対すれば原発は作ることができなかったからだである。この辺で反対運動もなく建てられてしまったのである。
だから大きな権利があればそれだけ責任も比例して大きなものだったと言うことを自覚されたのである。ただ火力発電所の場合は別にそういう責任もなかったのである。だからそこで補償金をもらっても何も言う人もいなかったのである。そこに火力発電所と原発事故原発との大きな差があったのである。

今日のニュースでも相馬市の玉野村でキノコ栽培している人がようやく放射性物質を測っても食べられるということで市場に出した。 12年過ぎてようやくキノコを売ることができるようになった。キノコはは一番放射性物質に汚染されたからである。
ともかく原発事故の被害の影響が大きすぎたことである。そこで漁業権を持っていた漁業者の責任が大きく問われたのである。
ただ宮城県の場合漁業に占める海産物の割合が福島県の十倍もありそれも影響していたかもしれない。女川ではクジラを取っていた時もありその鯨を解体するの見たことがある。それだけ漁業に関わる係わる関わる割合が大きかったのである。そして女川の津波被害も大きかった女川原発でもギリギリで津波から逃れたのである。一部に被害もあり危機一髪であった。
それは東北電力の副社長の人がこの辺は津波が来るから5mを相手高くしたのである。それでギリギリで津波から生まれたのである。それも幸運だったのかもしれないでもあの辺りは津波の被害を経験しているから危機感があってそうなったのである。福島県側は津波の被害は400年前にあったとしても全く忘れられていたからである。その相違も大きかったのである

ともかく原発事故の被害は放射性物質に汚染されるということは簡単には解決しない。森であっても放射性物質が循環しているのだから除染すること自体も不可能なのである。ただ30年過ぎるとセシウムが半減するとか言われる。それだけの時間がかかるプルト二ウムトだと消えるのに1万年もかかるというからそもそも除染そのものは不可能なのである。結局原発の恐ろしさを認識できなかった。ただ女川では漁業者の漁業権を盾に反対してたということはこの辺とはだいぶ違っていた。いずれにしろ原発の問題は放射性物質の汚染はそれだけ被害が甚大だったということである。だから12年過ぎても解決していないのである



女川原発は高さを一五メートルにしてぎりぎりで助かった

その技術者は、平井弥之助氏です。東北電力・副社長を退任後、電力中央研究所に移り、そこで、女川原発の建設計画に直面しています。

平井氏の実家は宮城県岩沼市にあり、仙台藩に伝わる記録では、近所の神社に、慶長津波が到達した、とされるそうです。
東京帝大の後輩の大島達治氏によると、平井氏が「貞観津波くらいの大津波に備える必要がある」と言っていた、ということです。
1970年に国に提出された女川原発1号機の原子炉設置申請書では、周辺の最大津波高さの想定値は、3m だそうですが、平井氏は、敷地の高さを15m と主張したとのこと。


高くしてもそれもぎりぎりであり幸運だったとなる。


posted by 天華 at 09:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連
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