母なる山と実り【飯館村の詩】
【万葉集の三輪山とも似ていた風景】
母なる山
どっしりと前に山がある
大地に腰を据えて山がある
母のように頼もしく
山があり実りが蘇る
隠れて石があり草の花が咲く
いくつか寄り合う石がある
ここに暮らしがあり
ここに生きる喜びがあり
悲しみがある
こころはここにある
ここを離れて心はない
いつも母なる山があり
その山は動かず落ち着く
静かに日は没り山は暮れぬ
額田王の近江国(おふみのくに)に下りし時に作れる歌、井戸王(ゐのへのわふきみ)のすなはち和(こた)へたる歌
味酒(うまさけ) 三輪(みわ)の山 あをによし 奈良の山の 山際(ま)に い隠(かく)るまで 道の隈(くま) い積(つ)もるまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見放けむ山を 情(こころ)なく 雲の 隠さふべしや
三輪山は低い山である。でもその山の高さが人間的なものとなった。人間的になる山は高く厳しくなるとなかなか人を寄せ付けないものとなり厳しいものとなるから人間的親しみを感じるというわけにはいかない。味酒(うまさけ)というときやはり山でも何か人間の暮らしを提供するものがある。酒作りにもきれいな水が必要だからである。だからまるで親しい人間のように別れを惜しんだのである。何か飯館村を離れ他に移り住んだ人たちも同じ心境になっているかもしれない、つまり山と人間が一体化してそうなったのである。
だから母山とかありまた祖母山とかある。ただ里から離れて高い山でもある。飯館村の山は里山であり低い山である。でも浜通りだとこうして身近に感じる山はない、阿武隈山脈でも遠くから眺めているからである。
飯館村になるとそういう遠くから眺めるものではなくすぐ身近に親しい山である。だからそれが母のようにも見えるのである
奈良の三輪山でも高い山ではなく飯館村で見たのと感じになる。だから奈良を去り近江に行くときその山が人間のように見えて別れてゆくのを惜しんだのである。それほどその山が人間が一体化していたのである。
飯館村でわ原発事故からようやく全部ではないにしろ田んぼが回復して実りの季節が来た。その稲穂の実りが山の前に広がる。それが何とも言えぬものを感じた。
飯館村はもう放射性物質で汚染されて農業はできないのではないかとされた。それで森林公園にしたらいいのではないかという提案もあった。それだけそこに住む人が激減してしまったからである。おそらくここに住んでいる子供が居るのかとも見る。なぜなら村外から学校があっても通っているからである。立派な学校を建ててもそもそもそこで学ぶ子供はいくなっているのである。
やはり何か人間はそこに暮らしがないと村でも生きてこない。実りがあり山がありそこに自然と人間と一体にるものがある。そこに暮らしがなくなれば村も活きてこない。
飯館村でも一時1万人近くの人が住んでいた。それはやはり炭焼きとか木材とかを石材でも東京に森林鉄道でまた蒸気機関車で貨物列車で東京まで運んでいたからである。戦後は引揚者が開拓に入ってきて農業をしたのである。だから今から1万人も近くいたということは相当ににぎわっていたとなる。でも1万人ででも飯館村は広いからそれでも少ないとなっていたのである。
とにかくその土地のことが意外と知らない。私自身はも飯館村には頻繁に行っていても新しい発見がある。それだけ飯舘村は広いということである。ただ飯館村でももう十年くらい田んぼは草ぼうぼうであり実りはなかった。でもそれが回復したのを見たときやはり暮らしがなければ村は生きてこない。現実にかなりの農家でも空家となり放置された。ただ必ずそこにこじんまりとした新しい家が建っていて住んでいるかと思ったら住んでいない。そこは別荘だという人もいた。軽井沢だったらわかるが飯館村ではそんなことはありえないと思った。ただ確かに相当数が飯館村から去ってしまった事は確かである。
でも稲穂の実りがあり花畑などがあり花などを作ってまでい館で道の駅で売っている。花は放射性物質に汚染されても関係ないからである。ただ依然として土は放射性物質に汚染されているということがありその影響は続いている。やはり土を取ったりしているから土の養分がなくなって野菜などでも米でもなかなか前のようには回復しないかもしれない。それだけ飯館村は放射性物質に汚染されてしまったのである。
秋になり飯館村に行く
【秋の風、秋の蝶、実り、秋晴れ、草の花、山津見神社】