国民国家とは近代に形成されたもので新しい概念である
【文明は民族人種を越えて共同するために作られた―ユダヤ民族主義宗教の問題】
●江戸時代まで日本では国民意識や国家意識がなかった
国民国家というのはどうして形成されたのか。日本の場合江戸時代に日本国民と言う意識をもっていない。日本では仲間と感じていたのは村単位である狭い社会である。そもそもこの社会というのは社(やしろ)に会すであり城を中心としたはいがその範囲は狭く一つの仲間意識を持つもの物としてあった。
社では現実に人々は集まり会合していた。そこで祭りを行ない共同で協議して何かをすることを決めていた。でも村単位となれば極めて狭い社会が仲間意識を形成したのである。そして仲間意識を形成するということは逆に仲間の掟がありそれに反するものは村8分になったのである。農民社会では土地を基本にして生活しているから村八分にされることは極めて厳しい罰だったのである。
だから村単位で生活しているとき境が大事になる。それで境となることを石碑やら何か村の境を示すものは必要になったのである。
ただいくら村の単位として生活していても江戸時代なら藩があり殿様が居るからその殿様のことを身近に知っているしその配下に侍がいて侍は役人であり村を支配していた。米を税として納めるとかきわめて身近なもの生活に直接かかわるものとしては藩主は存在した。つまり相馬藩だったら相馬藩に属しているということそこが国となっていたのである。でも相馬藩は意外になるとそこは別の国になっていたのである。だから関所があり今で言う国境ともなり簡単に出入りできなかったのである。藩ごとが別の国になっていたのである。そこで日本国民と言う意識は持てなかったのである。
●明治維新後ヨーロッパと接して国民意識を持つようになった
国民国家意識を持つようになったのはヨーロッパなどの外国人が入ってきてその外国と支配されるということで恐怖を感じて日本の国民国家意識が作られた。明治維新では地まだ日本国民国家意識はなく薩長とか長州とか藩の意識の中で生きていた
それは西郷隆盛の反乱で西南戦争が起こりその時侍に対して国民兵隊が組織され組織され侍の軍隊と戦ったのである。
その時確かに日本国民と言う意識が生まれたのである。
なぜならその西南戦争に薩摩長州に敗れた会津の藩士は国民軍として参加していたからである。つまりその時藩を越えたものとして日本国民の意識が芽生えて参戦したのである。
そしてその国民意識が日本の場合強烈なものとなり日清戦争から日露戦争から太平洋戦争とその規模が拡大して次には太平洋戦争で300万人も戦死したのである。それは第二次世界大戦でありその戦いが熾烈になったのは国民同士の戦いであり規模が大きかったからその犠牲者も大きいものとなったのである。
でも国民国家の問題は国民意識というのは近代化して起きたものであり新しいものだったのである。フランス国家でありドイツ国家であれイギリス国家であれもともとそうした意識は国民意識はなかったのである。国にしても細分化してそうした大きな国民として一体化することはなかった。中世だとそもそもそんな大きな国家国民国家はなく都市国家でありその都市はは城壁に囲まれてその中で共同意識が育まれた。それがシティズンシップである。その都市国家でも規模としてはとしては5万くらいであり小さなものだったのである。とても今に今ある国民国家というものからすれば極めて小規模なものだった。それでも都市国家同士で戦争をしていたのである。マキャヴェリの君主論はその都市国家同士の争いから生まれたのである。日本で言えば江戸時代の藩主があり別々の国だったともなる。
●都市国家を越えるものとして商業があった
ただその都市国家を超えるものとして商業連合としてハンザ同盟などができたのはヨーロッパでわ川が運河のようになっていてものでも人でもその川が道となり連携できたからである。それは都市国家を超えるものとして形成されたのであ。つまり商業というのは必ず遠くから物をが入ってきたりものを運んだり貿易があるから壁で囲んだ都市国家内でまかなうものとはなりえない。商業というのは一つの地域にとどまることがないからである。
だからこそアルファベットを発明したのは商業民族であるフェニキア人だったとなる。なぜなら共通の言語が文字がないと商業は成り立たないからである。必ず売買するには証文として文字が必要になってきたのである。まさに契約というとき神との契約というときそれは商業から発生したものなのである。砂漠の遊牧民は最初の商人だったからである。広い範囲を移動する人たちだから当然そのまま商人にもなったのである。
聖書の契約という思想は商人となった遊牧民から生まれたものであり農民ではなかったのである。商業とか貿易は一つの村とか狭い範囲から拡大してゆく。商業になれば相手が何であれ人種が違っていても互いに得すればいいということになる。だから商業というのは普遍的なものがある。民族が人種が違うから商売しないとなれば利益を得ることができないからである。だからヨーロッパでハンザ同盟とあればそれは都市国家を超えた一つの大きな商業共同体であり一つの文明を形成するともなる。
●文明とは民族人種でも越えて広い範囲で協力すること
つまり文明とは何かというときそれはより大きな共同を目指すものである。いろいろな民族がいてもそれらが争っていれば大きな協同性は生まれない。それで日本では村は中心の共同体であり商業になる時商人が来るとき神社の境内をて無縁の場として外部の人を入れたのである。もともと縁結びの場だったが商売のときは違ったものになった。それだけ日本では外部から来る人を警戒していたし交わらなかったのである。
だから商業とか貿易はより大きな範囲で互いに利益を上げることを目的としている。だからかえって文明を作ることになる。文明国民国家をとも違う。 大きな単位でありそこで人間がいかにして共同するかということである。だからそのために宗教がその協同性を得るために文明の基へにもなったともなる。なぜなら仏教文明とかキリスト教文明とかイスラム文明とかに大別されるからである。ただこの宗教でも民族宗教ではない。もし一つの民族だけの宗教だったらそれは文明化しない。日本の神道は戦争のときアジアで普及させようとしてもできなかった。そこに協同性がなかったからである。村の社が神となっているようなところではとても世界では通用しない。
ともかく世界では遊牧民が大きな役割を果たしている。その遊牧民のことを日本人は理解できないのである。でも例えば中国にしても遊牧民国家でもあり商業民族でもある。それはどうしてかというと中国は広大であれ巨大であり実際は人種もいろいろなのであ。中華民族が主体にあるとしても様々な人種が混交している。だから言葉もみんな違っていてテレビを見ていれば漢字のテロップとして流れている。音になればなかなか理解できないから漢字が共通なものとして理解するものとなる。だから漢字が共同性を培ったかということである。それは日本にも言えるわけである。文明とはまた文で明らかにするということだからである。
ともかく国民国家というのは当たり前のようにあると思っているがそれは近代になって作られたものであり新しい概念であり新しいものだったのである。その国民国家とか民族国家とかナショナリズムというのは新しい共同意識でありそのことが近代の歴史の根幹にもなっている。そして戦争はヨーロッパだったら都市国家間の戦争であり今のような国民国家の大規模な戦争にはなっていないのである。国民国家になったとき民族国家になったときその戦争は熾烈なものとなり莫大な犠牲が生まれたのである。何千万という人間が戦争で死んだのである。それだけの人間が死ぬということは近代以前はなかったのである。
だからこの国民国家というのはナショナリズムというのはどういうことなのか深く検討することが必要なのである。
●イスラエルで起きていることも民族主義国家の問題でもある
例えば今問題になっているユダヤ人のイスラエル国家建設のためにアラブ人の住んでいるガザで戦争があり悲惨なことになっている。それはなぜそうなったのか。ユダヤ人は第二次世界大戦でドイツのナチスに迫害されて虐殺された。それはドイツの国民国家意識ゲルマン民族が優れているということでユダヤ民族が排斥されたのである。その問題が起きたのは国民国家意識が近代に生まれた為だったのである。なぜならユダヤ人は確かに迫害されてきたがそれなりにそれぞれの国で受け入れられ適合してきたからである。オスマントルコ時代は今のイスラエルでのユダヤ人であれイスラム教のアラブ人であれキリスト教であり争うこともなく共存していたからである。
ではなぜ今イスラエルで争いが起きているのか問題が起きているのかその原因を問うと人は世界に分散していたがそれで迫害もされてきたが旧約聖書により今のイスラエルに2000年後にここは自分たちの土地だとしてイスラエル国家を作ったことである。それはユダヤ民族の国でありそれでもともと住んでいたパレスチナ人とかとアラブ人とかと争うようになったのである。
つまり一つの民族は平等を領土を持ち国民国家となったときそれは外に対して区別するものであり対抗するものとなる。その争いが国民国家と言うと規模が大きいから熾烈なものとなるのである。だからこの争いの根には近代に起きた国民国家意識というのは深く関係している。ユダヤ人の場合は旧約聖書から継続してその民族は系統は血統は持続しているということで特殊なのである。領土を持たなくてもユダヤ教で人々は共通のアイデンティティーを持ち国民として仲間として存在していたのである。だからそういうことは世界史でもまれなことだったのである。そのためにそこには神の意志が働いたとしているのも分かる。ユダヤ民族とはそれだけ普通の民族とは違って強固な優秀な民族だったとなる。だからこそ迫害に会ってきたのである。
でも一旦ユダヤ人でもイスラエルという土地を領土を持ち国家国民国家を形成するとき今度は逆にその国家を守るために他者をアラブ人排撃するようになったのである。ユダヤ人は迫害され続けてきたが次に今度は他民族迫害する立場にもなったのである。それもカルマなのかもしれない。ドイツ人はユダヤ人を大量殺害したからヨーロッパ自体がユダヤ人を迫害してきたからそのために贖罪としてイスラエルの味方となっているのである。
いずれにしろこの根に近代から起きた国民国家がありそれが争いの元になったことを知るべきである。なぜなら近代に国民国家が生まれたのでありその前には今のような国民国家はなかったのである。だから国民国家とは何なのかそのことを知らないとそもそも現代知ることはできないのである。
国民国家ナショナリズムというのは文明とは違う。人種とか民族を超えて共同を目指すものである。だからこそソ連である中国であれマルキシズムは共産主義がその基となった。そこで民族とか人種は関係なく労働者が最優先されたからである。そのために世界のプロレタリアートは団結せよとなったのであるそこに民族とか人種は関係ない資本家と労働者が居るだけだとなる。
またアメリカにしても多様な人種が入り混じっているのだから民族を民族国家ではありえない。さまざまな民族が共同するには民族主義でわできないからである。だからそこでどうして人々を共同させるまとめるのかどうなる。そこで法で持って治める法事国家になる。法律も民族によって差別するものではない。全ての民族に平等に適応されるものだからである。つまり商業であれ法律であれそれは民族を超えて通用するルールでありそれが文明を作ったともなる。
ともかく民族主義というのは国民国家というのは近代に生まれた概念であるそれは新しいものなのである。それまで国民国家というのはない。都市国家があっても国民国家はなかったからである。そこが誤解しやすいのである。だからなぜ近代国家になって国民国家が国家同士が熾烈な戦争になったかということである。それは今のイスラエルのアラブ国家とのアラブ人との対立にもあイスラエルの国の成り立ちもまずユダヤ人が迫害されたのでその土地を与え国民国家としてユダヤ人民族国家として成立させたことである。そこには宗教も関係していたがユダヤ人の宗教は一民族の宗教でありキリスト教のように世界化しなかった。救われるのは選ばれたヘブル人その後のユダヤ人だとなっていたからである。でもキリストが現れてユダヤ人にこだわらない愛こそ普遍的なものとして人々を結ぶものだとしたのである。だからこそキリストはユダヤ民族に受け入れられなかったのである。
だから今起きているイスラエルの問題も近代に起きた国民国家の争いの延長上にあるという認識が必要である。そこに根源的な問題がある。ユダヤ人だとかアラブ人だとかゲルマン人だとか何とかこだわって人種にこだわっていれば共同はできないからである。旧約時代だったら敵対する民族は殲滅された。それは神の意志となっていたのである。でもキリストが生まれて愛こそ最高のものであり愛でもって人は結ばれるべきだということを説いたのである。神はキリストを通じて人類に平等をもたらすものとなったのである。だからユダヤ民族主義国家というのはキリスト以前の旧約時代に戻ることになってしまったのである。
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