2023年09月08日

利から離れた場が教育には必要 (宗教も学問も学校も利と結びつき堕落した)


利から離れた場が教育には必要

(宗教も学問も学校も利と結びつき堕落した)

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青年の特権

青年は利を語るなかれ
これをやれば儲かる金になる得する
青年は利得を語るなかれ
青年は純粋たるべし
世俗の欲にまみれざるべし
青年は大いなる未来を語るべし
それは成らずとも語るべし
青臭くとも大言壮語でもよし
喧々諤々議論するもよし
とにかく利欲より離れてあるべし
純粋にその理想を語り目指すべし
それは別に成らずともよし
それが青年の特権なり
大げさなことと批判されても良し
確かに現実がすぐに突きつけられる
でも青年は未来を語るべし
なぜなら未来は青年によって作られるから
老人はただ過去を回想するだけになる
青年には大いなる未来がある
未来を創るのは青年であり老人ではない
だから青年の特権は未来を語ることにある
それが大げさでも非現実的でもいい
とにかく青年は未来を語り利得を求めない
ともかく青年は大望を抱くべし
それがならずとも抱くべし
それは青年の特権なり
いずれはその大望も挫折するとしても
青年は大いなる大望を抱き未来を語るべし
利得を離れてただ純粋に大いなる未来を目指すべし
それが青年の特権であり
神は青年に永遠の命の霊を与える
その時青年は神を知り神の子となる
その先の人生も挫けることはない
神は汝を導き天の国に引き上げる
神の懐は深く大きい過ちも赦す
紆余曲折があっても神は汝を神の国に導く
神に敗北はなく勝利のみがある
汝を再び神の天地創造の技を見る
全能の神の技は尽きることはない
その大自然が神殿でありさらに天にに真の神殿がある
そこに聖徒たちが集い天使が神を賛美する
さらに神は驚くべき技を行うだろう
新しい天と地を見る
人はかくて神を讃え神と共にあり永遠の都に住む
朽ちざる都がありその成すことは虚しくはならない
そこに誠の実りがありその実りを刈り取る
そして神にその実りはは奉げられる
神と結ばれて栄があり神を離れて栄はない
永遠に讃えられべきは一なる神なり
その光は闇を払い消えることはない
永遠の光明のなかにあり悪は見ない
神を見たものはその神々しさに倒れる
全知全能の神を畏るべし



●明治から立身出世も学問となった

教育でもなぜ歪められたのか。それはすでに明治時代から始まっていたのである福沢諭吉が学問のすすめを書いたけどもそれは学問でもって立身出世をする。それが学問の目的と化した。
そこからして学問というのが利益と結びつき一体化した。
学問とは立身出世のためであり何か真理とかを追求するとかではない。社会に出て立身出世するための学問である。
つまり学問と勉強とは社会で得する有利な地位に就く。そのための学問であり勉強である。だから慶応大学とかは学閥が強力であり社会を牛耳っている。それは利権団体として強固なのでそれで慶応大学に入ると就職するにも社会に出ても学閥が強力であり得するとなる。
こうしてその出発点からして歪められていたのである。ただ戦前の大学は全く今の大学とは違って本当に選ばれたエリートでありそれでそこに自由があり青春が謳歌できたのである。だから利だけではないデカンショデカンショとか世の中に出ても役に立たない哲学でも追求していたのである。つまり社会の利から離れた場として大学がありそこでエリートとして育てられていたのである

でも戦後は大学はそういうエリートではない。大衆化したとしたものとなっていた。講義をするにしても千人も入る講堂でするとか高校とはあまりにも違っていたので特に文系は暇つぶしの場であり遊びの場になっていたのである。
だからゼミに入っても教授とあったのは一二回しかなかったのである。教授とかでも何か教えないのである。だから大学というのは何だったのかと何かを教えられる場として入ってきたのだが教えることもないしただそこに自由な時間が与えられていただけなのである。
でももともと何かを追求するために大学に入ってはいない。大学に入れば何か得する社会に出ていいポジションを得る地位を得る。ただそういう利得を得るものとして大学にも入り受験戦争もあり本来の学問の目的など関係なくりの教育であり純粋に何か興味を持って追求するということもなかったであろう。
学生運動というのも戦前の特別なエリートは違った大学になった時起きた。大学は大衆化して起きた現象だったのである。つまり戦後はあらゆるものは大衆化してゆく。そこに今までの選ばれたエリートとか特権階級というものはなくなったからである。だから戦前の大学と戦後の大学はまるで変わったものとなったのである。

●戦後の民主主義は利を求めるだけ

そして戦後は民主主義となりその民主主義でもただ権利を主張して利を得ることが目的化したのである。そこに責任は無い。ただ利を追求することでありそのために教育もあり学校もあり大学もあるとなった。
とにかく人間というのは利と結びつくと歪められ金と結びつくと歪められる。でも子供の時は純粋に遊ぶということが仕事にもなる。それは利と結びつかないのである。だから遊ぶということはもともとは神聖なことであり神は遊ばされるとなる。つまり神は利から離れて遊ばせられる聖なる存在なのである。

神社でもそこは賽銭箱があって利を得る場所になった。そもそも宗教はこの世の利から離れる場所としてあった。でもこの世にある限りそれも不可能であり利と結びつきついにはただ御利益を追求するような場となったのである。
カルト宗教団体となるとむしろ信者を集めて組織団体化して利権団体となり政治団体となり権力を得るためのものとなり完全に利益を追求する団体となったのである。カルト宗教団体は共通しているのはその内部でも出世争いがあり権力争いがありしのぎを削っている。そこは世俗的な場よりさらに世俗的な場所になってしまったのである。ただ共通しているのは利求めることなのである。

大衆化した宗教であり大衆化するということは利益を第一にすることである。利益というのは誰でもすぐに理解する。発達障害の人が簡単な計算すらできないのに利に聡いのである。それは日々の生活の中でいかに金が大事なものか身をもって知っているから金のことを第一にして理解しているのである。
つまり面倒な理屈などなくても知らなくてもいい。どんな人で学がなくてもこの利益だけは理解する。得することは何かを理解する。だから今の宗教はすべて御利益宗教なので利益になる得すると吹き込む金になるとそういうことばかり指導しているのである。だからこそあれだけ人数が増えてくるのである。難しい理論は一切必要ない。ただ利を説くだけなのである。

●教育する場の喪失

要するに大衆化した社会ではもう教育する場というのはなくなった確かに学校はある。それも必ず利益と結びつき利益を得るための学問であり勉強なのである。学校では常に試験がある。その点数を上げるための勉強なのだがそれもただ利になるからそうしているのである。それから逃れられないのはその学生が悪いというのではなく第一親がそう強いてるからである。親もまた常に利を求めているから得したいから子供をそうした得する場に楽に稼げる場に地位を得ること望むからである。だからいくら利から離れた教育をしようとしてもできないのである。

ただ教育というときそうした一部のエリートがしているものではなかった。教育というのはそもそも実用的なものであり何か高等な哲学などは普通の人にとって関係ないものだったのである。職人だったらその技を身に付けるものでありそれはあくまでも社会に出て稼げる力をつけるためにそうしていたのである。だから私の父親は明治生まれであり酒屋で丁稚奉公していた。
それで私も家で店を始めたとき絶えず配達とかさせられていたのである。つまり父親は私を丁稚として見ていたのである。そしてそろばんを習っていたのもそのためである。それは丁稚には必ずそろばんが必要だったからである。でもそういう経験をしているから上の学校に上げたら楽だとして上の学校に上げてくれと言って中学のとき死んだのでは。だから教育ということ自体何か利益を得る社会でも有利な立場に立つそういう観点からしか観ていない。親も子供にそうした立場に立つことを望んでいるからである。

結局なぜ人間は教育でもなんでもゆがめられるのか。それは常に利がが優先され本来の目的がそれによってゆがめられるのである。子供の時に純粋に遊ぶという時そこにには関わっていない。でも大人になればそうして純粋に遊ぶということもない。遊ぶこと自体にも利が関わってくる。そこで本来の目的とは違ったものとなり弱められるのである。

カルト教団などは創価でもひたすら御利益であり後は社会的地位を上げることであり得することであり利益を得ることでありただそのために毎日祈っている。ほかの宗教でもやはり利と結びつき本来の宗教性は何もないのである。そこで語られるのはただ得することであり御利益を求めることだけなのである。だからそこで何か利を離れて未来を語ることなど何もないのである。

●子供と青年の特権は利を離れて未来を望むこと

子供の特権は青春の特権は利から離れて遊ぶことにあり青春の特権は利から離れて未来を語ることである。その未来を語るのは青年の特権なのである。もしかしたら荒唐無稽なことでもいいとても実現しない未来でもいいそのことを語ることが青年の特権なのである。
何か青臭くても良いし大言壮語でもいい。とても実現しない未来を語ってもそれが青春の青年の特権だとなる。そういう場があってもいいのだが今は必ず利と結びつきそういう場が失われたのである。なぜ青春は大事な時かというとそこが人生の出発点となり後々まで影響するからである。その出発点が間違うと人生そのものは間違ったものともなり得る。ただ青春の時はさまざまなことが一気におしいよせる。その性の欲望であれなんであれ一番膨れ上がりその欲望に圧倒されて肝心なものも見えなくなる。

でもなぜ若き時神を知れということが大事なのかそれは若い時しか聖霊を受けることはできないからである。なにか老人になれば悟りが得られる。れは確かである。理解できなかったこと何か自ずとと不思議に理解できるようになるのである。
でも青春の時最も血気盛んな時その時神を知らなければもはや神を知ることはできなくなる。神を知るということはやはり青年の時しかできない。だから青春時代に何か放蕩三昧にして節制しないと神を求めないとその後は得られなくなるし真善美の世界も見えなくなるのである。だからやはり人生の出発点が後々まで影響するのである。そしてあっという間に青年時代も過ぎてしまい老人になってしまうのである。

もう35になったら人生はあとは余禄だというのも分かる。40歳で白髪が生えてきたりするからである。それだけ人生は過ぎ去るのが早いのである。そして人生は夢のようになって終わる。「人間50年 下天の内をくらぶれば 夢幻のごとくなり」人生となってしまう。ただ今人生百年時代だから違っている。それでも人生は短いのである。それで職人であれ普通に働いている庶民であれなんで働いてきたかわからないという人が多いのである。何のために金をためたのかもわからないと言っているのである。別に知識人でなくても普通に現場で働いている人もそうなっているのである。空の空になてしまうのである。だからこそ若き時神を知れいうことが重要な教えとなるのである。出発点を間違うと一生も間違うとなるかっらである。

詭弁学者は自分の知識を営利の目的をもって諸都市を巡回し謝礼を得るためにさまざまな科学や芸術中でも雄弁修辞のの学問を売りさばいていた。彼らの学問の目的は純粋な真理追求ではなく実利を目的としていたそれは宗教にも言える宗教団体の勢力を伸ばそうとして政治的に経済的に実利を目指す芸術の分野でも思想書くというよりは本を書く制作するというよりは絵を描いて実利をものにする方に進む
離脱の思考ー上野霄里

つまり学問でも芸術でも宗教でもすべて利を求めるものとなった。そのことを厳しく批判している。それは批判とより激しい糾弾になっているのは上野氏の特徴である。それは原野に咆哮する野生の動物とも似ている。
とにかく社会は利によって歪められ本来の素心はなくなったのである。素朴なる心を失ってしまったのである。ただどこに行っても複雑に利益がー絡みあって利から離れられないのである。あらゆるものは利益を目的として社会は機能する。それは宗教でも同じである。宗教はすべてご利益宗教になっているのを見ればわかる。だからこそ宗教はカルト宗教になり大衆宗教になり堕落したのである。でも世俗で認めるのは本来の宗教などではないそうして堕落した利権化した利を求める宗教こそ大衆でもわかるからそれは巨大化してナチスのようにもなる。

つまり大衆がそうしたカルト宗教を作り出し利権化してただただ利益を得るためのものとなってしまったのである。だからそこに本来の宗教を目指すものは何もない。ただ利益を得ることであり権力や地位をあくことなく求めているのである。そして政治化した利権団体となれば批判もできなくなるのである。
現代は個人など認めない。それは拒否するべきものでありそもそもこの世に存在させられないのである。この世で大きな声になるのは必ず背後に利権団体があり宗教でも必ず組織団体がありその団体よ社会は認めたとえそうかのように完全な政教一致でも数が多ければ世間はそれに従う。なぜなら選挙はすべて数で決まるからである。そこに法律も何もないのである。そこから全体主義ファシズムとなったのはナチスだったのである。

●老人でも最後は神の国に向かって前進する

いずれにしろ人間の一生は不連続なものではなく連続している。だからすでに老人になったとしても老人の中に青春があり青年がある。それで青春でも老人の中によみがえる。青春の冒険精神お忘れるなという時人間の一生は連続しているからである。
ただどうしても若いときは無謀であり欲望が溢れて何か理解することにかけている。理解する悟るというのは老人になってからで。ただ私の場合は遅すぎたということである。 70以上になってからようやく理解するようになっているからである。すでに天才ならば若い時に芸術でも何でも理解しているからである。

自分の耳に目に芸術的なものまた美術的なものを触れ示いまだ多くの人が思いもかけない未発なもの蓄える力を養うということが大事です
老いゆけよ、我と共に  手島郁朗

そうして日々蓄えたものが老年になって実りとなる。とにかく人生は連続していてその出発点が青年でありだからこそ若き日に神を知れとなることが大事なのである。出発点を間違うと一生間違った方向に行ってしまうからである。
そういう人たちは集団組織の中に取り込まれて自らの個を失い硫一生ただ集団組織のために生きるロボットとなるのである。そして教祖を偶像化して教祖のコピー人間となり終わる。
ただそういう集団組織の中で利を追求するから利益にはなる。

でも最後にわ普通の人でもただがむしゃらに利益のために働き金を残しても何のために残したのかもわからないと言っている。それは別に集団組織のために尽くした人だけではない。それは最初の出発点が間違っていたからそうなったともなる。ただ利益しか求めていない。そして他者より優れているものとして這い上がろうとして必死になる。集団組織の中でも地位を求め激しく争うのそれはオウムでもそうだった。そこには理系の優秀な人たちがいてその人たちに負けたくないとして高卒の人がサリンを撒いたと言っていた。その内部でも熾烈な競争があり地位を得るために争っているのである。

とにかく人生は連続したものであり若き日のことは老人になっても連続している。別なものではないのである。人生はやはり日々生きたものはその人のものとなる。日日蓄えたものはやがて老年になって実りとなる。ただそれは天才の場合は別なので天才は別であり努力しなくても会得するものはあるからである。
私が参考にしたものは内村鑑三でありキリストの幕屋の手島郁郎であり直接学んだ上野 霄里氏となる。ただ上野 霄里氏は信仰者とは違う。天才思想家行動者哲学者でありキリストの信仰者ではないのである。だからそれのその思想を理解できるのはやはり天才だとなる。でも普通の人は天才でないのだから偶像崇拝化する危険がある。
そもそも師というのは問題がある。なぜならどうしても天才だともともと優れているものを持っていて努力しなくても備わっているからである。だからそれを真似ることは出来ないのである。でも普通の人でも神から聖霊を受けてそれによって神を知り神の国に入ることができる。主と共にそのその生は終わらないのである。その生はさらに天の国に向かって神の国に向かって進んでいるのである。だから真の成果は神の国にありこの世では成就しないのである。

離脱の思考 ー原生人間復権のための試論ー (現代神話シリーズ第4輯) 単行本(ソフトカバー) 上野霄里 (著),

老いゆけよ,我と共に: 手島郁郎英詩講話R.ブラウニング「ラビ・ベン・エズラ」に寄せて 文庫 – 手島 郁郎 (著)
posted by 天華 at 17:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育、心理学など
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