失われたファミリー大家族
2025年:単身世帯が1996万世帯 加速する「ソロ社会」化
非人口要因のひとつとして考えられるのは、老親とその子どもとの同居率の低下である。すでにこの傾向は進んでおり、妻と死別した80歳以上の男性とその子どもとの同居率は、1995年の67%が2015年には43%まで低下した。
●ファミリーは大きな範囲の人の結合体
現代の社会状況を見ると例えばニートとかことおじとか40くらいでも働かない人が普通に居る。確かにそういう人はいた。でもごく少数でありそれは特殊な人として別に社会の話題になるということもなかった。でもその数が百万とかなればそれは特殊な人の問題として片付けられない。それはさまざまな社会問題を引き起こす。
また単身所帯が増えるというのもそうである。ただ明治以降に家族という言葉が生まれた。また家族の墓が生まれた。それは江戸時代にはなかったのである。何かこれが理解しにくいのである。
江戸時代の墓はホトケッポとか村のの人たちが一か所に葬られた。そこは村の共同墓地であり個々のの家族の墓というのはなかったのである。だから家族という言葉は明治以降生まれた言葉でありその前に家族というのはなかった。家族でも家族が無いにしろそれより大きな家族のようなものが大家族はありたとえ結婚しなくてもそういう大家族の中に所属して共に生活していたのかもしれない。一族郎党とかにもなる。
外国でもファミリートはその範囲が広いからやはり日本と同じように大きな範囲がファミリーなのである。ファミリーというとき親しいという意味があり日々生活する中で顔を合わせて生活する人たちがファミリーだったかもしれない。サクラダファミリーという時やはり教会を中心にしてファミリーが形成されだということでもある。その中心に教会があったとなる。
家族の変化で変化となるとそうした大家族よりもまた大きいファミリーというのは喪失して個々のの家族になった。だから家族の単位は狭い範囲になった。でもやはり今の核家族化したものよりは大きなものだったのである。だから農家は大家族で経営していて東京に働きに出て帰ってきてもそこに長男がいて家を継いでいるから養うということもできた。何か大家族ファミリーにはそうしてを広い範囲の人たちを糾合するものを持っていた。
核家族になると家族よりさらに狭い範囲のものとなりそれは家族としてすら維持できないものとなったのである。だから何かあると介護でも病気でも核家族だけではとても維持できなくなる。今人々が拠り所となるものを失い単身化して孤立化して孤独死に至るということが増える。
●所帯人数が少ないので介護とかで担いない
今所帯というのは構成人数が少ない。本当に一人だけの人とか夫婦とか子供がいても一緒に子供所帯と住む親は少ない。結果的に夫婦の所帯とか単身所帯が増えたのである。夫婦の所帯でも一人がどちらかが死ねば一人になってしまうのである。それよりもまた熟年離婚も増えていて一人暮らしの人は増えたのである。
その人はこの辺の原発事故とか特殊な事情で一人になってしまった。原発避難区域に住んでいて息子夫婦は仙台に住むようになったからである。そしてまた65歳なのか離婚熟年離婚して一人になってしまったのである。その事情は原発事故だけではない。そもそも熟年離婚もどこでも増えているからである。
そして一緒に墓に入りたくないという人も死後離婚も増えている。そういう社会的事情があり単身所帯が増えたのである。それは若い人でも結婚しない人が多いから単身所帯が増えたのである。ある意味でソロ社会になっているというのも分かる。ただ熟年離婚は男の方が衝撃がある。特に妻に支えられてきた人は熟年離婚すると精神的にもショックが大きい。でもそういう人も増えているのである。その人でも男性でも家族に尽くしてきたのだがいろいろな事情もあり本人の性格とか色々あって離婚になった。それで孤立化して不安定になり困っている。そういう人も増えたのである。
やはり人間は拠り所となるものは必要でありそれがないと不安定になるのである。ただ別に単身所帯でも特殊な人がいてそういう人はそういう人生を選びそれでその人生を全うしていた。それはアウトサイダーとか極めて特殊な人だったのである。現在の問題はそういう特殊な人ではなくどこにでもいる一般化した問題なのである。だから社会問題になるのである。
現代というのは村のような狭いところでより合い助け合い生活しているのではない。別に金さえあれば身近でもよりあい助け合うということをしなくてもなんでも物は買えるし何か近くの人と協力して生活するということもないのである。だから近くでも何をしている人なのかもその仕事も分からない人も結構いるのである。
それだけ人間は今互いに知り合うと言うこともないのである。だからこそ逆に家族が拠り所となる。夫婦でも拠り所となる。でもその範囲が狭いし家族といっても少人数であり夫婦だけとかになってしまうのである。そうなると何かある時支えられなくなるのである。ヨーロッパあたりでは介護とかは国ですることになる。そのために多くの税金を払っているからである。
日本にはそれがないから家族に負担がかかるがその家族が少ないから介護とかなると苦しくなる。ともかく70くらいになる職人の人でも家族に尽くしてきても単身所帯となって不安定となってしまったのである。何か息子娘もいても近くに居ないので頼りにならないと言っていた。なにか老人になると体も弱るので近くは見る人はいるといいのである。でも近くに住んでいないと隣の市まで15キロもあるから車で来るのも結構手間になる。それで病気になった人は一人で住んでいるが苦しいとな。いずれはとても一人では生活できなくなる。
いずれにしろ何か家族というのは夫婦とか子供とは別になり一人が倒れるとその負担が大きくなるし家族でも崩壊するのである。
それは介護で一人で悪戦苦闘して家族自体が崩壊したことを自分自身が経験している。そして私自身も単身所帯になったということである。でもそれは私の場合は特殊であったがほかの人は別に結婚して子供を持って仕事して家族に尽くしてきたという人が普通である。それでもやはり単身所帯化しているのである。それはその人自身にも問題があるにしてもやはり社会的な問題として現象化したのであり社会の問題なのである。
なぜならやはりファミリーというとき今の家族をイメージするがもともとはそういうものではなかった。その数でも今よりずっと多い人の集まりがファミリーだったのである。
それが喪失した時拠り所を失い不安定となり孤立化してまた孤独死が増えたのである。何か巨視的に見るとき社会自体が個々バラバラのアトム化社会だとかも言われる。それは経済が広域化グローバル化したということも関係している。金さえあれば別に物は買えるし一人でも生活できるからである。
おそらく江戸時代あたりだったらとてもその後でもファミリーに属していなければ生活できなかったろう。もうそこに縛られるにしてもやはり拠り所となる所がありそこでともに生活して仲間として死んでいったともなる。とにかく何らかの共同性があって暮らしていたなる。共同しなければ基本的に農民社会であれば生きていけなかったからである。
それでなぜ現代でカルト教団が増えたのか?それも大きな家族であるファミリーを喪失した。結果として疑似ファミリーに吸収され所属することで安定化を図る。ただそれはナチス的な組織になるから怖いものがあり危険なものなのである。
●人間社会は得るものがあれば必ず失うものがある
何か無縁化社会とか言われる時それは金だけが支えるものとなり金さえあれば別に孤立してても一応生活はできる。でも問題はなにか事故であり病気であり介護とかなると一人でわ支えることができなくなるから問題なのである。もちろん夫婦がいれば一人が支えることができるがそれでも負担が大きいのである。
そして介護でも家族だけが任されることが負担が大きすぎるのである。だから人間社会の不思議は江戸時代など貧乏であり食うことすらまともにできないし飢饉もあったとか現在ど比べれば地獄だとも言われる。それも事実であり現実であった。
では今の社会がまた江戸時代とか戦前とかと比べていいものなのかとなればそうともならない。それが人間社会の不思議なところである。というのは昔の江戸時代の医者などはそもそもが病気を直すということができないのでそれでもともと治せないということがわかっていて医者を責めたりしないのである。そして医は仁術とかなっていたのであるつまり今風に言えば愛を持って患者に接する同情する。でもとても現実に直す術はなかったのである。
逆に現代では病気は直されるべきものであり治せない医者は責められる。
でも医者は患者に同情を持って接するということも無くただ医は算術となったのである。まず金の計算をするからである。だから人間の社会というのは確かに医学でも進歩してそれは悪いものではない。治らない病気が治るのだからそれは江戸時代などよりずっといいものなのである。
でも何かを得ることが何かを失うということが人間にはある。そのことは人間である限り人間社会であるために変わらないとなる。何かを得ることはとにかく何かを失うことなのである。だから今いろいろ文句をいう不満をいうが過去に比べれば今の社会はいいものだとなってしまうのである。
何か家族というのでも江戸時代から考えるとそもそもは家族という言葉自体明治になって生まれた言葉のようにそれは江戸時代の大きな家族とは違ったものである。小さい単位のの少人数のことであり江戸時代にはなかった言葉なのである。だから言葉というのはそういう社会背景があって理解できるのである
とにかく人間社会は確かにいろいろと科学でも技術でも進歩する。でも必ずそこに失うものがある。家族でもやはりさまざまに変化して作られてきた。何か家族というとき人間社会から始まる出た時からあったように見られる。でもそれは狭い範囲の今の家族からイメージしているから過去の昔の家族のことが理解できなくなったのである。いずれにしろ単身所帯が増えるというときそれはやはり社会が変化してそうなった。だから個々の家族の問題ではなく社会自体の問題であり簡単に解決はできないともなる。
だからとにかく人間社会というのはいくら進歩しても何か必ず問題が起きてきて理想社会など作れないのである。そこに人間の限界があ。それを解決することが人間の力ではやはりできないとなるからである。何か一つ問題を解決してもま新たに一つ問題が生まれるのである。つまり一つの地獄が消えてもまた新たな地獄が生まれる、親鸞の言うように(地獄は一定の住みかなり)なのである。時代が変わっても地獄社会なのである。
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