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成仏するとはどいうことなのかーお盆に死者が帰ってくる
(その人がどう生きたの方が大事)
●成仏しなかった非業の死
私の父親違いの兄は交通事故で40歳で死んだ。私の家は兄をよくしなかった。母は後妻に来たからである。五年間は一緒にいたのである。その五年間は貴重だったのである。なぜならもしそうして一緒に生活しなかったら兄という言う感覚も持てなかったかrである。
兄の前の兄の実の父親は東京で会社の事故で死んだので。そしてまた兄も交通事故で死んだのである。これはカルマなのかどうかわからない。ただ、そのことは私自身に深く関係していたのである。だからそれを単なる他人事とはおもえないのである。
成仏することに非常にこだわる人がいる。創価とか仏教関係では成仏しないかするかが一番問題にしているのである。そのことで信心のことが決められているのである。ただ、カルト教団の言ってることは正直宗教とは何の関係もない。デタラメなのである。第一宗教などを求めている人なんて一人もいないからである。そこに欲が何でも叶えられとしてとして入ってきている人たちである。ただ、何か知らないが異常に成仏にこだわっているのである。
成仏を考えるとき死んだ姿ではない。成仏とは何か?それは死んだ姿とか、どんなふうにして死ぬとかとかでもない。その人の一生がその人なりに全うされたかである。その生き様の方が問題なのである。死んだ姿とかにこだわってもそれで成仏するともならない。
成仏するとはその人がその人なりにその一生を全うすることにある。その人がどういう風に生きたかが問題であり、死ぬ姿を見てもわからないのである。つまり成仏するとはその死ぬ有様ではない。その人がどういう風に生きたかによって決まるのである。何かよく言われように俺は社畜なんだよなとか言って一生を終わればその人はその一生を全うしたのか?しない。すると死ぬ時どうなるのか成仏はしないとなる。
●その人がどんな人生を生きたかが問題
とにかくカルト教団などに生きている人間はみんなロボットであり教祖のコピーとなって何らその人なりの人生など生きていないのである。だから、その人生には実際は価値はない。もちろん、その団体の中では価値あるとされるが、いずれ団体も組織も消えてしまうからである。その組織団体が消えた時、その価値も消失するのである。会社で会社から退職した時その会社での役職があっても退職すればなくなる。するとその人の価値はなくなる。だから退職するとその人の価値がなくなるのであり生きがいもなくなってしまうのである。
何故ならその人はあの価値は会社があっての価値であり。その人自体の価値というのは追求されていないからである。ただ、会社で働けばやはり何かその人なりの価値として残るものはある。でもその人が地域で何か働くことができて認められるということは?難しい。村社会のようなところだったら村という世界が農村社会だったら継続される。
だからそこで死んでもご先祖様となって、その村に生き続けていたのである。そしてお盆には死者が帰ってきて村の人たちとみんなで踊るということになっていた。それがお盆の起源だとされている。死んだ死者を迎えて一緒に踊るものだったとなる。今はそんなことは全くない。そういう社会が消失したのだからそういう祭りとかも消失するのである。時代によってその価値が失われたのである。
●40歳で交通事故で死んだ兄
兄の場合はどうしてもその生を全うされたとはならない。そこに何か無念が怨念が残っている。墓を作ったの自分の家のそばに自分の墓の傍に墓を作ったのだがお盆には墓参りするのだがその娘が一人いてもその人は兄を思う心もなくなっていた。なぜなら夫婦でもめて離婚して娘がそのために父が交通事故で死んでひどい目にあったからである。それは静岡の方であり連絡は取り合っていたが、何が起きたかその時からなかった。近くにいれば何か事情も分かって援助することもあったが、できなかったのである。それで妻の方の実家に頼ったのだがそこでもよくされなくて高校出てからすぐに東京に出たのである。。だから実際あったのは子供の時一回しかその娘と会っていない。でも母が死んだときは何回か来ていたのである。ただ、それも何か遺産があるかどうかでお金のことで。来ていただけである。だからその縁も切れたのである。
確かなことは兄の霊は成仏していない。
それはその死に様のことではなく、生き様のことなのである。十分にその生を全うすることができなかった。親としてもできなかった。それを全部私の家のせいだともならない。なぜならその当時中卒で集団就職した人は大勢いたからである。ただそう、その苦労は私よりずっとあった。だから私は後ろめたいものを常に感じてきたのである。でもすべてが私また私の家にあったのかというとまたそれもわからない。あったことはあったが、全てが私の家にの責任なのかどうかは?わからない。なぜなら結婚して離婚したという時、それもそれは私の家の責任とも言えないからである。苦労したということがあり。それで負い目を感じていたのである。
●成仏するにはその人の生きざまの方が大事
ともかく成仏するというときその人がその人なりに充分に生きれば成仏する。何か自分なりに生きない、強制されて生きる。例えば医者に向かなくても医者にされたとか色々親に強制されたり親ガチャで苦しんだりする。そして自分自身の一生をただ強制されて終わるという時、その人は成仏しないともなる。そう見れば人間の一生がその人なりに充分に個性を発揮して生きたという人は稀になるかもしれない。何か常に社会であり。家であれ強制されるからである。
まず貧乏だったら食うことが大事であり。自分なりの何か才能でも伸ばすことは不可能である。そうなると自分なりの生きられなかったということで死ねば成仏はしないとなる。それは成仏の姿ではなく一生をどういうふうに生きたかである。まずカルト教団などはまったくの奴隷でありロボットでありその人なりに生きている人は一人もいない。同じ制服を着て同じ事を語っている。そして教祖の命令のままに偶像崇拝となり決して成仏はしない。だから成仏などにこだわるのはバカらしいとなる。その前にロボットの人生とか生きたとしても成仏しないのである。
私の母親は確かに100歳まで生きたがその死んだ姿も何か笑っているようで姿から見れば本当に成仏していた。ここに苦しい表情もない。私にはいつも楽に死ねたらなと言っていた。それは叶えられた。でも母親が本当に母としてまた女性として人間として充分に生きられなかった。常に働くことを強制されて働くことしかなかった。花を買うより庭に花を植えるよりそんなものいらないとして怒っていたのである。つまり花に価値を見なかったのである。これも寂しい人生であった。ただ、それは大正生まれでただ働かされるだけだからそうなったのである。
だから、また母も人間として女性として充分にその生を全うしたとはならない。もっと花に興味を持ったり何かただ働くだけだの人生でなければよかった。そうして人間とは最後に問われるのはその生き様であり成仏の相ではないのである。もちろん成仏の相が悪いと何か確かに気分いいものではない。でも私の母親は?そうして充分に自分なりに人間として生きたということはない。でも成仏の相は良かったのである。
●怨霊となる死者
いずれにしろ不慮の死非業の死は成仏していない。だから何か墓参りするにしてもそもそも成仏していないから。心、苦しいものみなるある何か圧迫される感じになる。その人なりに一生をを生きていればそうはならない。不慮の死非業の死でありそのことが頭にあり、解消しないのである。
だから、そうして。非業の死を遂げた人とか事故で死んだとかいう人はその魂はこの世に未練を残しそしてまたまた呪いともなっているかもしれない。そのためにその呪いを恐れて死者をを祀り慰霊する。靖国神社が戦没者の慰霊のなっているのがそうである。そこには生きている人たちが何か後ろめたいことがあり死んだ人の霊を鎮めるためにそうなったともなる。私自身も兄については同じことを感じているのである。成仏していないからやはり心苦しいものとなってしまったのである。でも一旦死んだ人を引き戻すこともできないしどうにもならないことである。
死者がお盆に帰ってくると言うけどやはりこうしてその人なりの一生を生きない人は非業の死を遂げた人は成仏していないし。その霊は死者が帰ってきても村の人と笑って盆踊りをするようなことはしにくい。 ただ、今は盆踊りでも村という共同体が消失しているからなかなかこのように御先祖様とはならない。つまり死者を供養するということはやはりその生活でも継続したものがあり。それで死者を供養するということになるそれが祭りにもなる。
今はそうして昔の村のように継続する共同体というものがなくなっている。 だからこそ家すら家の共同体すら消失して墓を守る人もいなくなり。墓じまいが問題になるのである。村に生活するということがなくなり広域社会になった時さらにグローバル社会になった時そういう時間の中で形成される共同体は消失したのである。そのとき死者もその村の中に御先祖として生き続けることもできなくなったのである。
つまり現代は空間がグローバルに拡大した。でも時間軸で形成されたものが失われたのである。
ただ一方で死者ももうこの世に帰ってきてほしくない人も多い、人を苦しめた人もいるし死んでも恨んでいる人もいるからである。だから家族でなかったら死者でも帰って来て欲しいとかみんなならないのである。
●死者がお盆に帰ってくる―御先祖様になっていた死者
つまり今は死者が継続される場がない。すると死者はどうなるか?幽霊のようにさまよっているかもしれない。御先祖様になったときはそこで継続して生きて生きている。でもその場がなくなったとき死者はどこに行くのか?死者の魂は誰が鎮めるのか?何か成仏しない人の魂は他者に害を与えるということがあるかもしれない。何か非業の死を遂げた人の霊を鎮めるために神社を立てたりした。死者が怨霊となり呪いとなることを恐れたのである。兄の場合はそういうことを感じる。
死んだらみんな御先祖様となった迎えられるとも思いないのである。
でも私の姉と母も死んだがそこには感じないので。父親でもそうである。遺影はは笑っていて笑っていて何か依然として家族とあるような感じがする。だから何かそこに成仏してはしないとは思えない。でも実際、家族でも何か?成仏していない恨みを残して死ぬ人もまたいるのである。ある母親は娘に対して【ひどい娘だわ】と呪いの言葉を残して死んだ。その娘は本当にひどい娘だったので。母親はそれなりに愛して育てた?実の母親ではないにしろ実際はその人は母親になっていたからである。でも何かもめて母親が病気になったときも何の世話もしない捨てたも同じである。ただ、母親は白血病で呆気なく死んだのである後の葬式はしたとして葬式だけなら簡単だからである。介護となると、その娘、何もできない。
実の母親は五歳で家を出て行ってその娘を捨てたのでる。だから、その母親を母親と思っていな。ただ遺産があるので、それが欲しくて老人ホームに入れているだけなのである。第一、その実の母親は認知症であり何かわからなくなっているから悲惨である。
家族でも親子でも問題があるのは人間である。そこに確執があり、争いがあり親子であっても兄弟であっても何らか争いがある。平和が必ずしもない。それがが人間の現実なのである。平和がないというとき。戦争は無いというだけではない。そもそも家族すら平和がないのである。何らかの争いがあり、確執があり平和がないのである。それは私の家でも嫌というほど経験したのである。
ただ、私の家族の場合は生前は争いがあっても今は何か今は平和になっている。だか遺影は笑っているのである。でもそうでない家族もも親子も兄弟もこの世には結構多いのである。そもそもなぜ宗教は血縁を否定したのか?それの血縁でも愛し合うというだけでなく、必ず何らかの。揉め事があり争いがあり平和がないからである。それで仏教でもキリスト教でも血縁とか家を否定したこともその為だったのである。
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