会津紀行ー昭和村から矢の原湿原へ
(姓が語る福島県の歴史ー新妻、松本、只野)
男のみ城を守るやさにあらじ手弱女なれど抗い果てぬ
雨しとと桐の花咲く会津なる菩提参りて相馬に帰りぬ
桐多く嫁入り道具に桐箪笥会津の暮らし偲びけるかな
激しくも流れ岩打ち奥会津草深くも鬼百合咲きぬ
会津なる伊佐須美神社に我がよるも雨降りとどまる秋のくれかな
雨降りてテントに一夜泊まりしは木地小屋なりし秋の夜ふけぬ
木地小屋は磐梯山を上る中腹にある
会津藩士 野村 新平
朱雀3番寄合組隊鈴木隊半隊頭
町奉行、200石、25歳
明治元年旧9月24日大芦村矢ノ原にて戦死
会津の山々深く矢の原に死すも若きや秋のくれかな
新津駅線路交差しかなたにそ雪に真白く会津の山かな
伊佐須美神社から昭和村を通り矢の原湿原に来た、この湿原は日本で二番目に古いとありその雰囲気がそうだった。湿原としては広くないにしろ直観で古層の湿原と見た。
ここに咲く花こそひそか誰が見む今は花なき秋のくれかな
何か荒涼として原始の沼であり湿原だった、そんな所でもぼっしん戦争の血なまぐさい戦があり若くして死んだ会津藩士がいたのである
自転車で伊佐須美神社から昭和村から矢の原湿原に行った。ただその記憶があいまいとなった。
一面の萱の原の山を行ったことを覚えている。伊佐須美神社で雨がふりとどまったことを覚えている。伊佐須美神社は相当に古い
ここで佐須となっているのは飯館村の佐須と同類なのか、というのは飯館村の佐須には山津見神社がありそれは安曇氏系統のものである、
ここで佐須となっているのは飯館村の佐須と同類なのか、というのは飯館村の佐須には山津見神社がありそれは安曇氏系統のものである、会津にも大山祇神(おおやまつみのかみ)の神社がありこれは海洋民の安曇氏系統だからである。会津は山国だから焼畑がやはり行われた。佐須とは焼畑のことだからである。それは安曇氏系統が入り始めたとなる。
(おおやまつみのかみ)とはやまつみであり飯館村の山津見神社と同じなのである。つまりいかに日本というのは海洋民の安曇氏が広範囲に入り拓いた地かを証明しているのである。
会津の系統が武田氏にあるというのも意外である。武田というと遠いようだが信州は遠いという感覚ではないかもしれない、また葛尾村(かつろう)は信州から移動したものであり
治承四年、宇治川の戦に敗れ命からくも逃れた高倉宮以仁王は越後に落ち延びることになり、中仙道から上州沼田を経て尾瀬から下郷・大内宿に入った
山を伝う道があり逃れたのである。戦乱がありそこから逃れた武士が先祖になている所がある。平家の落武者伝説が多いのはそのためである。南相馬市の鹿島区の只野氏も南北朝の戦いで霊山城が炎上して落城して逃れた一族だったのである
この地が「葛尾」と名付けられたのは、信州・長野県が発祥です。長野県の坂城町にある山の上にある城跡の名前が「葛尾城」といって、戦国時代の武将、村上義清の居城でした。この城をめぐって武田信玄と激闘が繰り広げられ、義清は2度勝利しましたが、3度目に敗れました。その際、家来だった松本勘解由介が相馬に落ち延び、相馬当主から三春領と相馬領の国境警備を頼まれて住み着いたこの地を「葛尾」と名付けたといわれています
ここでは松本の姓が三分の一いる、こういう山の村だと外部からの人の出入りが少ないから松本という一族が継続して住んだとなる。常磐線の末次駅をおりて墓地を見たら八割くらい新妻の姓だった、また南相馬市の鹿島区は南北朝の争いで北畠氏が守っていたが霊山城が炎上して落ち伸びた武者の一族の町である
だから只野の姓の家が50軒くらいある。戦乱があり勝者と敗者がありその歴史が姓に残されていたとなる。
末次駅降り墓地たずぬ大方は新妻の姓や畑に菖蒲咲く
昭和村となると歴史が感じられない、長い歴史から見れば昭和は新しいからである。
ともかく、福島県といっても広いのでは?会津というときそこが東北ではないという作家もいたし。会津は一つの大きな国であり別の国なのである。その成り立ちは古く日本海から阿賀野川を通じて四道将軍が会ったいうことになる。そこに東北で一番古い古墳大塚山古墳があり三角縁神獣鏡が埋もれてあった
それは東北ではここにしか発見されなかったのである。だからすでに早い時期から日本海を通じて交流があり吉備氏と結びついていたのである。。
三角縁神獣鏡は岡山県備前市の鶴山丸山古墳のものと同じ鋳型である
副葬品の多くは優品で、畿内から移入されたもの、畿内文化の強い影響を受けたものが多いことから被葬者と大和朝廷との関係が注目される。
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だからなぜ会津が信州とかと結びついていたのかというと 山伝いに来たのかとなる。吉備と関係したということは?どういう経路でそうなったのか?吉備はは瀬戸内海であり、瀬戸を根拠としており。そこからどういう経路で会津まで達したのか?日本海から阿賀野川を使って会津に入ったということもある。
茅渟(ちぬ)地方・・・起源地である。和泉(いずみ)国の沿岸の古称。現在の大阪湾の東部、堺市から岸和田市を経て泉南郡に至る一帯。
摂津・河内 (磯城・葛城)→近江→北陸道(能登)→信濃→毛野地方(上野・下野)に到る経路をとって、畿内から東国へ勢力広げた。
https://minowa1059.wiki.fc2.com/wiki/%E7%BE%A4%E9%A6%AC%E3%81%AE%
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南相馬市鹿島区の浮田国造があり。それは毛野氏系統なのである。原町の泉かんが跡は海側にある。最初は山側が古くそれで毛野氏の勢力が伸びてきた、真野という地名は浮田より新しい。浮田神社が常磐高速の鹿島のSAに祀られた
だから浮田の範囲は山側に広いのである。また縄文中期の遺跡が飯館村に発見されたから山の方が古いのである
海側はあとから発展した、それは太平洋は波も荒く交通路になりにくかったからである。
とにかく会津でもわかりにくいのは山が多いからである。山がひしめている。それも2000メートル級の山なのである。この辺で一番高いのは鹿狼山であり400メートルなのである。だからこの辺で物足りないのは高い山がないことなのである。
高い山があると引き締まるからである、それが心にも影響するのである
昭和村の地名
昭和村は会津でもかなり奥深い処だった。昭和村への道を入ると温泉が旅館がありそこで温泉にひたり疲れをいやした。それから村の食堂で食事をしてそれからかなりうねうねと山を上っていった。そこは一面の芒、萱原であった。その山の上に矢の原湿原があった。この湿原は日本でも二番目に古いとか道の脇にあるにしては古い沼だったのだ。ここで会津藩士が討ち死にししている。壮烈な戦いがこんな奥まで持ち込まれたのだ。こんな静謐な沼のそばにそんな案内板があるのもにあわない、反面そのことはあの会津の落城は壮烈なものだった。戦いは熾烈だったことを示している。なぜこんなところまで来て戦っているのかわからないからだ。確かにそこまでは覚えているのだがそこからはどこに出たのか覚えていない、自転車で行ってもこのように地理とかがわからなくなったり忘れるのだ。だから記録が大事になる。一面になびいていた萱原と沼とは覚えていたので思い出して詩も書けた。
それで昭和村の地図を見たら面白い地名を発見した。昭和村は大芦村と野尻村が昭和に合併してできたのだ。合併してできた名前はその村の歴史を消す場合がある。この合併地名はかなり多いのだ。大芦村の処は確かに芦が繁る処であり野尻というのも野の尻という意味でそれなりに地形として合っている。ここでは野は山間の平らな所でその尻となる。その他に日落沢とか転石峠とか木地小屋とかあった。これも山深い処の地名に合っている。日影山とか日落沢というのは山で日が落ちて陰るのが早いのだ。そういう地形が多い。転石峠というのは石が転げてくる危ない峠のことだしそういう処も多い。今でも落石注意とか案内板がある。それから駒止峠とは駒が止めるほどの峠道のことでこれは檜枝岐につづいていた。針生部落から檜枝岐は駒止峠でありこの峠は私は20年前くらいにバスで行ったがくねくねくねくねと曲がってやっと越えられる舗装もされていない、埃がたつ凄い峠だったのだ。ここを越えて檜枝岐まで行くのだから檜枝岐は秘境だった。今は観光化されて秘境というのはないのだ。
つまり秘境とは交通でも閉ざされていて外界との交流が少ない処である。交通が発達しない戦後まもなくや戦前はこうした地域は非常に多かった。そこでは自給自足の生活をしていたのだ。だから秘境は多かったのだ。まるでみんな仙人のような生活をしていたのだ。ソバが常食となるのは米がとれないためだし米を食えないという僻地でもあった。旅するならいくらでもその頃秘境があったのだ。今は秘境はない、自動車や交通の発達でどんな奥地にも気軽に行けるから秘境はないのだ。
ただ昭和村というと今では観光化した檜枝岐より秘境の感じがある。あまりに観光化するとかえって魅力を失う、昭和村はその点まだそういう秘境的なものがある。インターネットで探したらそこにキャンプ場があり木のバンガロ−があり4000円で泊まれるとあった。ここに行きたいなと電話したら今年は終わったらしい。雪はふらないが紅葉も終わった。パスの便も終わり自動車がないと行きにくい、でもあんな所で3日くらいのんびりすごしたら気持ちいいだろう。この昭和村についてはからむし織りとかで良く宣伝しているがそれよりも何もなくてもわずかに残された秘境として価値あるんじゃないか、つまり秘境とはとにかく鉄道が通らず街からず−と離れた孤立したような山の中であればいいのだ。檜枝岐のように頻繁に人が入るようになると秘境ではもはやないのだ。伝説として次のようなものがあった。
治承四年、宇治川の戦に敗れ命からくも逃れた高倉宮以仁王は越後に落ち延びることになり、中仙道から上州沼田を経て尾瀬から下郷・大内宿に入った。橘諸安公の娘・桜木姫と高野大納言俊成公の娘・紅梅御前は数少ない家来を共に京から王を迫ってこの地に辿りついたものの、恋しい人はすでに越後へと向かってしまったあとだった。身のおきどころなく畑小屋集落にしばし滞在したがどちらも間もなく亡くなり、御前は下郷町戸赤の渓流沿いにまつられ、桜木姫の墓は大内集落のはずれに今もひつそりと残っている。そこから畑小屋の山は御前ヶ岳と呼ばれるようになったが、畑小屋の鎮守は以仁王の父・後白河法王を祀ったものという。
大内部落には都落ちした高倉宮以仁王の一行に同行したある従者の君「桜木姫」長旅の疲れから18歳の若さで亡くなり、この地に眠っているといわれています。このお墓の周辺を御側原(おそばはら)といいます。源氏と平家の争いがこんな僻地まで尾をひいたのか祭りがあるからこれは本当なのだろう。ただ平家落人部落というのはかなり嘘が多い。義経伝説も北海道まであるのだからこれもどこまで本当なのかわからない、それでも奥地まで戦いがあり落人狩りなどが戦争では行われたのかもしれない、執拗な追手というものがあって身を隠さざるをえないこともあった。
会津というと何回も行っているがやはりあそこが良かったなとかもう一回行く処はまた調べ直してその土地に詳しくなり今度は別な処を探査してしみようとかするのがいい、あそこはただ通りすぎただけだったから今度はまわりをよく見ようとなる。でも何日か滞在しないとやはり自然はわからないのである。だから旅は小臆する旅をしろとなるのである。
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