死とは何なのかー生物的死と社会的死
(記憶され生き続ける死者−村のご先祖様になるとは)
村だったらこのように形が違っても一つに結ばれていた
現代は無数に分割されて一つのマス目が消えても気づかない
●人間の死を考える
◎生物としての死
〇家族内の死
○社会的な死
死を考えるときこの三つがある。生物としての死は社会とか家族とかも関係ない。人間が個人でも死と共にすべて消滅してゆく。
すべてが無となる恐怖である。
今日の宗教の最大の問題はこの死の問題でありそれは社会とも関係ないし家族とも関係ない。個々人が生物として死んでゆくことだからである。それは社会的にも家族的にも解決不可能である。社会でも家族でも個々人の死ねないようにはできない
いくら医療が発達しても人間は百才以上生きてもいずれは死ぬのである。それは社会問題として解決不可能である。
ただ人間が死んだら葬儀をしたり墓を作り埋めたりとともらうことはする。でも死に関してはそもそもは社会的に解決不可能なのである。それは科学技術でも医療でもいくら発達しても解決不可能である。
だからそもそも宗教は社会的政治的経済的問題ではなく死その物の解決が最大のテーマとなったのである。
でも現実は宗教も社会的政治的経済的問題として追及されるようになったのである。でも本質的にそれは社会でも政治でも経済でも解決しないのである。それは死の問題はそもそもなぜ人間が死ぬようになったのかそこから死の問題を考えねばならない
人間はエデンの園にいたとき死はなかったのである。
それが食べるなと言われた知恵の実を食べて死ぬようになったのである。ということは神が禁止したことを破ったことによって死が生まれたからである。
だから死の問題は神と人間の関係でありその関係の中でしか解決しないのである。人と人の関係が社会であり家族でもある。でも死の問題は神と人との関係でありそこに社会とか家族は関係しないのである。
だから社会では解決しない。科学技術でも解決しない。カルト教団のように何百万人を集め信者を集めて神に祈っても解決しない。選挙のように投票して死の問題など解決しないのである。それは神と個々人の問題であり集団的に社会的に解決できないのである。
永遠の命を与えられるのは神しかいないし集団的に社会的に解決できないのである。
こうして一番重要なことは人間だけでは解決しない。社会的政治的経済的に科学技術でも解決しない。そこに人間の限界がある。その努力は無駄だとは言えないにしても人間の力では死の問題は解決しないのである
ただ人間の死には家族内の死とか社会的死がある。それは死その物の問題ではなく社会的問題として国家的問題として家族の問題としてもある。死別はそれだけ深刻な物だからである。永遠に合わなくなるということは耐えられないとなるからである。
ただ社会的死というときまたは家族内の死というときそれはまた別物でありその死は社会的に家族内の人が考える物となる
戦死者は国家的問題であり国家として考える物となる。
●街の一軒の自転車屋が死んで意識されたのはなぜなのか
最近死んだわが町の自転車屋の星淳一氏は我が小さな町での一人の死だったけどもなぜか死んでからその人を思うようになった。
それは私自身が自転車のことでいろいろと世話になったからである。その人が死んで一軒もに町に自転車屋がなくなったことで余計に意識するようになったのである。
何か依然として駅前に自転車屋の星さんがいるように思えるのである。つまり星さんは死んでもやはり何か駅と共にありそこで自転車屋を継続している感じになったのである。
だから社会的には死んでも依然として生き続けている感じになる。それは別に偉人でもないし歴史的人物でもない。でも死んだ結果としてその人はなお依然として街に生き続けている感じになる。そのことは社会的にまたは歴史的にも継続して生きているという感じにもなる。
偉人の場合は歴史に生き続けるから必ずしも死んで全く消えてしまうということはない。でもそうゆう人はごくわずかでありほとんどの人は名前すらきを記憶されないのである。
でも何か自転車屋の星さんは街に生き続けている感覚になる。
人間はありふれた物とか当たり前のことが意識できない。
自転車屋などどこにでもあるとかなる。他でもいろいろ職業があってもその人が社会の中で記憶されるということはなかなかない。特に現代は無数の職業があり人はただ巨大な社会の部品とかして歯車とかして記憶されない。
一つの部品がかける死んで消えたとしても巨大な社会はやはり何もなかったように継続してゆく。一人の人間の死など歯車が一つ消えたとしかならない。でももしその歯車が一つ壊れて消えたとき社会自体に影響したらその歯車のことでも考える。
それは小さな町で一軒しか自転車屋がなかったからである。もし医者でも一軒しかなかったらその医者が死んだりいなくなったらみんな困るから記憶される。
だから人間の価値はその場所や時代によって常にかわっているのである。
●村社会では死者が御先祖様となった理由
いずれにしろ社会的には人間は死んでもう社会は維持される。でも今あらゆるところで後継者不足となっている。社会的に必要な物でも欠損してもそれを埋める人がいないのである。だから一見自転車屋などなくてもいいともなっていたが今やそれが小さな町から一軒もなくなった時その存在価値が大きくなったのである。
そして駅前にあったことで駅のことをいつも見ていた。街を活性化するためにわどうしたらいいかと駅のことで語り合った事があった。だから不思議に駅に帰ってくると星さんはそこにいる感じになるのも
今になると私の家族は全部死んだので誰も待つ人もいない。それは悲しくさみしい。家族の死もやはり大きな物としてあり死んでも依然として生きているような感覚にもなる
だから日本では村がその生活の基盤としてアイデンティティとしてあった時死んだらご先祖様になるということはその村では死者でも生き続けているのである。
盆踊りとは死者の供養のために村の人は死者とともに踊ることで始まった。それは村という中で親密な人間関係があり死んでも依然として生き続けている感覚がありそうなった
だから田植えの時は死んだご先祖様が山から降りてきて手伝うという時もそうである。つまり仕事をし続けるということである。
もしその人は何も仕事もしないなら村の中でも町の中でも死んでも生き続けるということはない。だから人間にとって仕事をして村の中でも役割があって生きていることが大事だとなる。
でも今はあまりにも社会が巨大化して複雑化して職業にしても一つの巨大な機械の歯車のようになって死はただ一つの歯車が消失したというだけになる。でももしその一つの歯車でも消えたとき全体が動かなくなったとき意識するのである。
小さな町では自転車屋一軒でもその役割が大きな物だったのである。だから死んでからその人を意識するようになったのである。
ただグローバル化広域化社会になると物はいくらでも入ってくるが人は意識されない。もし近くでしか食糧でも手に入らなかったら別に農民でもなくても農民の価値は高くなる。
米でも野菜でも近隣からしか手に入らなかったからである。もし近くの農民から食料得ることができなくなったら死ぬことにもなったのだから深刻だったのである。今は何かあれば外国から輸入すればいいとなり近くの人の価値が相当に低下したのである。
いずれにしろ死んだらその土地のご先祖様になるなどということはもうない。農民の間でもないだろう。社会的に人間の死は価値が低くなったのである。何か村の中で死んでもご先祖様として生き続けることもなくなったのである。
社会的な死として重く意識されなくなったのである。
つまり村であれ社会であれ仕事を何か役割を持たない限りご先祖様とか社会的的意義ある死になることはありえないのである
そもそもニートとか引きこもりとか百万人以上いるとかの時代である。働かなくてもいいとなっていてもではその人にどんな価値があるのかとなる。そこにベーシックインカムとかの大きな問題がある。人間の代わりに機械が何でもする時代になったとき人間の存在価値はなくなりチャットgptで人間は用ありませんといわれたらどうなるのか、この社会に存在する価値がないから死んでくださいとも命令れされかねないのである。
コンピューターであれ機械であれロボットであれ人間は無用だとされたらどうなるのか、これも恐ろしいことになる
そして現代はグローバル化経済であり物は世界のからいくらでも入ってくる。でもその物が作られた土地とか風土とか人間の労働とかそれを作る人の苦労とか気持ちとかはわからない。ただ物だけが心と分離して入ってくるのである。だから物とは心でもあり物が憑くとなっていた。その物と心は分離して物だけが入ってくるのである。
それで地産地消がやはり体にいいとなる。貿易は必要でも限度を越えているのが現代だからである。
どうしても物から心の方へシフトされてゆく望まれている。
現実に物と物とはやり取りされても人間の心はそれで結ばれたとはならなかったのである。
苗族民話集で歌垣の場で結婚の約束をするやりとりがある
それはまことか口先だけか
よりあう心がまことなら
手に手に近いの品をさしだして
二人の真心とりかわそう
つまり最初にまことの心があって物がその心に従うものとしてあった。心がさきであり物は心に従うものとしてあったとなる
今は物が心と分離している。それで人間疎外が起きて物神化したとマルクスが分析したのである。それは経済の規模が世界的になりあまりにも巨大化してもう人間的なものから離れて心も何もない。ただものだけがやり取りされる世界市場になったのである
そこで失われたのは心だったとなる。だから今はその心の回復をしなければならない。そういう時代になったのである。
タグ:物と心の分離 自転車屋の死 死とは何なのか 生物としての死 社会の中での死 家族の中での死 村の御先祖様になる 意識される死 意識されない死 死の重みの消失 心の回復の時代へ グローバル化で失われたもの 地産地消の回復
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