相馬藩内の市町村の特徴−花から見る
(地理と風土が基本にあり飯館村も一体であった)
市町村の特徴はどうして作られるのか。それはまず地理とか地勢とか風土を基本にして形成される。それを基にして歴史が形成され個性が作られる。相馬藩というとき規模が小さい、六万石だから小さい、でも地形的には変化に富んでいる。
海があり山がありと地形的に変化がある。海の民山の民の国だとなる。それは日本が海彦山彦の神話があるごとくそういう国柄だからである。だから飯館村が相馬藩だったの一見離れてみえるが地理的に一体なのである。なぜなら南相馬に主な川が三つあるとして真野川は飯館村の大倉の真野ダムに通じている、その川は佐須を源流としている新田川は草野の飯館村の中心地を源流としている。
こうして飯館村地理的に離れて別世界になっているようで海側の南相馬市と一体なのである。だから放射性物質でもフレコンバッグが破れて流れ出しいたというときそれが川を通じて流れてくるから騒いだのである。真野ダム蓄積した放射性物質も真野川を通じて流れ出してくる。だから飯館村と南相馬市は一体なのである。それはすでに鎌倉時代でも鹿島区の鎌倉から来た岩松氏の領地になっていたことでも歴史的にも一体化していたのである
相馬藩になっても山中郷としてあり野馬追にも出ていたのである
ただ飯館村が海側と違った高地にあり温度でも5度も違うということはそこは亜寒帯であり植生も違っている。
なぜなら海側は浜通りは温暖だからである。それで照葉樹林帯の南限の地としてマルハシャリンバイが海老地区に指定されていた
また多珂神社の近くにスダシイ神社があるのも南国的な照葉樹林帯に属するか自生したとなる
そして大和王権が鹿島区辺りまで支配地とした。それで万葉集の真野の草原の歌は気候の境界線であり草原でない、かやはらを萱を歌ったものではない、大和王権の支配地として認定された歌でもあった。そこに大きな歴史的意味があったのである。
ともかくその土地のことを肌で知ることはむずかしい、その土地を知ることはまず地理と風土を知る。そこから始まる。
ところがそれは地図を見てもわからないのである。なぜなら地図を見てもなかなか土地の高低がわからない、モンゴルでは海抜が1000メートルある。飯館村の海抜が平均500メートルくらいだから倍の標高さがある。飯館村で平地の海側より温度が5度も違っている
そのために飯館村では冷害があり飢饉となり苦しんだ歴史がある。米がとれなかったからである。
ただ夏は高原地帯となり涼しいのである。
このようにモンゴルは冬は非常に寒く厳しい地帯なのである。
日本人が北海道の人がテントで一年間暮らして一回り痩せたと言っていた。ということは栄養がとれずにやせたとなる
服でも分厚い服を着ているのは冬が寒いからである。
マイナス30度くらいになるから厳しい風土なのである。
世界になると地理でも風土でも知ることは簡単にできない、地図を見ただけではわからない、それが近くでもそうなのである。
海側と山側では特に飯館村は相当に風土が違っているのである
そして最近飯館村の森に銀蘭が咲いていることを教えられた。
その花は森の中に入らないと見れないしあいの沢の管理人は教えないと言っていた。採ってゆく人がいるからだと言っていた
確かにこの花は森の中でしか見れないとしたらめずらしいとなる
白色の花が暗い林内では銀色に見えるというときこの花の神秘は森の中で見るとき感じるものなのである。
それで飯館村の花は銀蘭にした。でも一回も見ていないのだからこの花が適当なのか問題になる。でも森の中に咲いているということで飯館村にふさわしいとなる。
それから原町の花をヒマワリにしていたがこれは外国産であり自生したものではない、それで小川町の川の土手に咲いている夏菊がふさわしいとみて原町の花は夏菊にした
相馬市は城下町であり藤の花があっていた。鹿島区は草深いとなり藪甘草が合っていると見た。小高区は最初に相馬氏が城を築いた所であり枝垂桜がさいていたのでふさわしと見た
ただ南相馬市というとき範囲が広くなったので町とか村の特徴を消したことはある、つまり南相馬市より原町市に方がふさわしかったからである。原町というのは長い間なじんだものであり南相馬市というのはただ相馬市の南としかならなかったからである。
それが無味乾燥にしたとはなる。相馬市は江戸時代の城下町でも原町市は常磐線の機関区となり別な発展をして作られた市だったからである。
確かに県の花とかある、でもさらに市町村ごとの花もある、しかしそれもふさわしいかどうか風土性と地理と歴史から感じるものだからである。それは地元の人でもなかなか気づかないとなる
つまり文化的なものはこうして風土とか地理とか歴史が複合的に関係していて気づきにくいし地元の人でも発見できないことがある。それだけ相馬藩であれ一地域のことでも知るのはむずかしいのである。それでもアイデンティティ化することはその土地と一体化することでありそこから文化が産まれるのである
そして豊かになれば時間にも余裕が生まれると文化が産まれる。
私が指摘したもの新たに地元で発見したものである。
その土地の魅力は実際はまだ発見されていない、未だに知らないことがあり感じないことがあるからである。
地元の人でもそうなのだから外から来る人が余計にわからないのである。相馬市と原町の相違がわからなとなる。これは旅してもそうなのである。表面的にしか理解できない感じないのである。
それで芭蕉がみちのくを旅してその風土性と歴史性を実感したことに感嘆するのである。
五月雨の降り残してや金色堂
五月雨とは自然の変わらぬ気候の巡りである。その大自然の五月雨にも朽ちず残された金色堂を歴史と自然の中で見事にとらえたのである。そこに悠久の歴史を感じまた自然の猛威ともなる五月雨を感じるのである
自然と風土と歴史性がこの短い句に凝縮されたのである
そのようにみちくの自然と風土と歴史性が一体化したことで
不朽のものともなったのである。
それはそれぞれの地域で風土と歴史性が一体化することアイデンティティ化すうることが文化なのである
だからcaltureとはcultivate(耕す)なのである。その土地のことはそこに長年住んでいる人でも発見されないことがある。
それだけ時間がかかるということである。
この歴史性というときそれを活かす時文化になる。飯館村までの塩の道が落葉に埋もれ忘れられている、でもそこをたどれば昔の人の苦労を偲ぶことができる。
それで栃窪にまんじゅうだけを売っている店がある。するとそれを助のまんじゅうとかすれば歴史を感じることになる
助の観音とは栃窪から山の道を行き休んだ場所だからである
白石に足軽饅頭というのを売っているからである。その饅頭を食べて力をつけたということである。その謂れを知り昔を偲ぶとなる、ただ腹を満たすだけではないものとなるのである
ただこの風土性とか歴史性とかを感じるのはむづかしいのである
地理でも車で一気に飯館村に行くと何かその高さとか塩の道でも苦労して塩を運んだことを偲べないのである。そこに返って便利になっていろいろなことを人間は感じなくなったともなる
とても奥の細道の芭蕉が感じたようなことは感じない、時代のせいもあるにしても余りにも便利になりすぎて感じなくなったのである。新幹線で二時間ちょっとくらいで来たら感じないのである。だから意外と今は旅でも浅薄な旅となり印象でも深いものを感じずに通り過ぎてゆくだけだともなっているのである。