2023年05月31日

松川浦から飯館村への塩の道(詩)

松川浦から飯館村への塩の道(詩)


塩の道去年(こぞ)の落葉踏み
助の観音あわれ
塩を運ぶ昔の道
塩を待つ山の民
塩を運ぶ海の民
その長き道のり
その塩の貴重さ
塩を待ちわびる人
塩を苦労して運ぶ人
人と人は塩を通じて
ここに結ばれぬ
今その道は忘れられ
山の森に埋もれぬ
しかしその道を歩むとき
積る落葉を踏みて
助の観音を助け泊まる
昔の苦労を偲びぬ

今日は天気が良いので栃窪から塩の道を行った。土地を途中崖道が崩れて通れない所があった。でも自転車ではその脇を通ることができた。
でもさらに行くと土砂崩れのようになって道を遮りそこは通ることができなかった。ただ工事しているから通れるようにはなる
それで引き返して上萱の道を八木沢峠の方に下った。上萱(うえがや)に残っていた茅葺の家はなくなっていた。何か津波でも海側の家がなくなったりしている。ここもそうである。

塩の道は栃窪から沢の道を行く、下を沢になり道も細いから危険だった。そこは随分長く行っていない、難所であり馬で行くのも危険だった、だからこそ牛転がしとかの地名がついた、長野県の日本海から松本市へ行く塩の道は長い、そこで塩を運んだのは牛だったのである。それで牛つなぎ石とか残っている。
松川浦から塩を馬で運びこの助の観音で泊まることがあった
一日では飯館村まで運べなかったのである。

いずれにしろ道が細く沢伝いとか山中の道を上るのだから難儀した。つまり人間の営みとして常に運ぶことがあり苦労したとなる
日本では木材が豊富でも山の斜面とから切り出し運ぶので苦労した、馬車で運んでいたから苦労した。外国では平地に延々と森があり運ぶには楽だとなる。
日本に森林鉄道が張りめぐらせたのは木材と石材とか運ぶためだった。

いずれにしろ塩は貴重なものであった。サラリーというときそれは塩の意味だった。ローマ帝国の兵士に塩を配ったことが起源となっている。
またアフリカで塩と黄金が等価で交換されたのもそれだけ塩が貴重だったからである。地の塩たれというのもそのためである。
塩なしで人間は生活できない。縄文時代でもやはり塩が必要であり海岸に暮らしていた人は塩は取ることができた。
でも山となると塩を手に入れることは容易なことではない
だからこの辺で早い時期から塩を手に入れるため山の民が海の方にやってきた。その道が大原から八木沢峠を越える道でありまた栃窪からゆく塩の道である。

もう一つは松川浦から宇多川を登ってよく道である。一番利用されたのは松川浦から栃窪を通って行く塩の道である。そのの道は安曇族が飯館村まで行った道でもあった
なぜなら八木沢峠のヤギとは安曇族の八木氏のことだからである。
また山津見神社が栃窪にあり塩の道を登ってゆくと山の中にも山津見神社がr安曇族は松川浦から宇多川を登って途中栃窪から塩の道を登った道と大原から八木沢峠を登って飯館村に到達したのである


春の塩の道を行く―写真あり

助の観音の内部の絵馬―馬と人が休んでいる絵

二か所崩落があり自転車でも通れなかった

brokenroad1.jpg




posted by 天華 at 20:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/190377808
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック