相模武蔵の古代史から解明される中央政権との深い結びつき
(続日本書記に記されていたので判明したー歴史の記録の大事)
久良岐郡(くらきぐん)は、神奈川県(武蔵国)にあった郡
奈良時代の人々の暮らし/小宮まゆみ/第51回港南歴史講座
歴史は記録されることと中央政府と結びつくことから過去が解明される。そのことがこのユーチューブで理解した。
戸籍がなぜ作られたのかそれは班田収授法で国民に土地を天皇から与えるそして税を取るために作った。つまり日本の土地はもともと天皇のものであり天皇から与えられたものであった。
なぜ戸籍が作られたのかそして現代まで日本で戸籍があり続けているのかそれは基本的には国民から税を取るためのものであった。なぜ日本で世界ではなくなった戸籍があるのかそれが古代から始まり現在まで続いているというのはなぜなのか
それはと天皇制と深く関係していたのである。
戸籍でもって国民のを支配するためだったのである。そこには家族の一人一人の年齢とか男女別とか記されていて何歳になれば税を納めるまた兵士に徴兵することができる
これは今のマイナンバー制度とも似ている。そこから国民の財産を全て国で管理して税金を取ることになるからである。
相模とか武蔵国関東の一地域のすでに飛鳥時代からも平城宮時代からも深く関係していた。
それは一つの木簡から明らかになったのである。飛鳥から発見された木簡に記されたものから明らかにされたのである。飛鳥時代からというとずいぶん古い時代からすでに中央の支配があり租庸調があり調として米とか布で納めていたのである。
でも奈良といえば相当に遠い。どうして運んだかとなるとやはり東海道に道が作られていて荷物を背負って運んでいた。
その道幅は12mもあったというこれはその後からできた鎌倉道とかより広いのである。それはあたかもローマ帝国の道にも似ていたのである。だから思ったより日本はすでに中央政権の強力な国家が生まれていたのである。
その頃貨幣は和同開珎ばどが作られていたが流通していない、でも平城宮とかでは貨幣は流通していた
でも地方では流通していないから調として麻の生地などが貨幣代わりになっていたのである。
そして平城宮の一部に久良郡の税を納める倉があった。それは豊臣秀吉の政権の伏見城に最上と伊達の屋敷があったようにすでに中央政権と深くかかわっていたのである。
飛鳥というと平城宮とか藤原宮の前なのである。関東はすでに東海道を通じて奈良と結ばれていたのである。それは京都と大阪と今でも東海道で結ばれていることに通じている。
もともと武蔵国というと埼玉の行田に近い、そこは稲荷山鉄剣が発見されたことで有名である。それだけ飛鳥時代以前からでも大和朝廷の建国前から中央と深い関係にあったのである。
ただ史実として正式に国の歴史として続日本書紀に記されるいたので証明したということは大きい。
歴史というときどうして解明するのかとなるとやはり明確な証拠となるものが欲しい。それがやはり文字として記録されたことに頼ってしまうのである。文字が明らかな証拠として残り証明されやすいのである。
でも柳田国男はそうした文字に頼らないで口から口へ伝えられたものを重視する民俗学を起こしたのである。
だからすべて文字から歴史が解明されるわけではない。でも古代とかなると何か言い伝えがあるとしてもそれはそれが真実かどうか曖昧なものとなる。すると文字が強力な証拠になる。
そして庶民でも文字を漢字でも理解してたという。それで土器に文字らしいものが記されていた。それは文字の練習だったらしい。中央から奈良から国司が役人が派遣され地域の人に文字を教えていた。また国分寺などを必ず建てたから僧侶が役人の代わりに文字を教えたとなる。
万葉集に庶民の歌が載っているのはやはり文字を理解していた人がそれなりにいたということを証明している。
いずれにしろ意外と飛鳥時代からでも東海道地域関東地域はすでに奈良の中央政権と深く結びついていた。
それを一地域から解き明かしたこのユーチューブは参考になった。
ではなぜ東北となるとみちのくとなると歴史として分かりにくいのかそれは中央政権との結びつきが明確にわからない。続日本書紀に記されてもいない。でも東北にも中央政権と関係した役所である郡衙があった、ただ中央との関係が明確ではない、日本書記には載っていないからである。
南相馬市原町区の泉官衛跡は有名であり木簡も出ている。でもそれをこのようにわかりやすく説明されていないのである。またそれだけの資料がないということで説明されていない。この相模は武蔵のように中央政権との結びつきが明確ではないのである。
続日本書紀であれ明確な証拠として残されていないのである。
それで想像になってしまうのである。
ただみちのくの真野の草原の万葉の歌は明らかにこの辺までが奈良の中央政権とは支配した地域であり真野の草原とはその境界のをさしていて奈良の中央政権が認定した地域でもあった
でも明確に奈良の中央政権とのつながりが正式の国の記録に載っていないので想像になってしまうのである。
つまり歴史というのは時代がさかのぼれば遡るほど明確なものはわからなくなる。そこで記録された国の正式の文書は証拠となってしまうのである。その証拠があり関東の一地域の古代が明確にされたのである。
例えばこの辺で起きた津波のことでも相馬藩政記に二行だけ生波(いくなみ)で700人が溺死したという記録が載っていた。それは津波が来てからわかったのでありそれまで忘れ去られていたのである。学者すら知らなかったのである。もしこの二行のことをみんなにしらされていれば来ないなど思わなかったろう。いかにこの記録が重要であったか思い知らされたのである。
だから歴史というのは文字から頼ることがどうしても多くなる。それで誤解が生じることもあるがが文字というのはそれだけ大きな役割があったともなる。
youtubeで説明されるとわかりやすくなる。説明でもうまい人は人気がでる。また郷土史でもこうして全国の人と結ばれる。
こうした一地域のことはわかりにくいからである。
でも地域からでもインターネットで個人放送局となり発信できる
それも専門的なことでもできる、小数者相手でもできるし金もかからないからである。
ただ手間は省けない、win11にして親指シフトが使いないので音声入力にしたがうまくいかない。
youtubeをしてみようとしても手間なのである。
ただ居ながらにして大学の先生であれ講義を聴ける時代である、いちいち学校に行く時代も終わるのかもしれない、何か関心があれば知識を深めることができるからである。
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