2023年05月13日

飯館村の海岸地帯の気候風土の相違 (山津見神社と焼畑の関係ー安曇一族の八木氏の跡)

飯館村の海岸地帯の気候風土の相違

(山津見神社と焼畑の関係ー安曇一族の八木氏の跡)

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●焼畑に関する引用

御祭神は神日本磐余彦尊(カンヤマトイワレヒコノミコト)、山の神である大山祇神(オオヤマヅミノカミ)、火の神である火産霊神(ホムスビノカミ)は3柱になります。

神日本磐余彦尊は初代神武天皇のこと。

創建は約1900年前に、大和武尊(ヤマトタケルノミコト)が山中で火事に出くわし、その火をニホンオオカミが消し止めたのを大山祇神のご神徳と考え、3柱の神を祀ったのがはじまりです。

宝登山という名前は、「火を止める山」「火止山=ほどさん」に由来します。ニホンオオカミは神の使い・御眷属様(お犬さま)として親しまれ、授与品には白と黒2頭の狼が向かい合う御札があります。

日本武尊(ヤマトタケル)が東征の途中で地元の賊衆に襲われた時、草薙剣で葦を薙ぎ倒し、そこで賊衆を迎えうち、火を放って難を逃れた。その様相が烈火のように見えた、あるいはその火で葦が焼け燃え盛ったという伝承から、「焼津」と命名された

さねさし 相武の小野に 燃ゆる火の火中に立ちて 問ひし君はも」
(ああ、相模の野原で火に囲まれた時、火中に立ち私を気遣ってくださったあなた)

かつては日本でも山間地を中心に行われ、秩父地方では「サス」、奥羽地方では「カノ」「アラキ」、飛騨地方では「ナギ」、九州地方では「コバ」など種々の地方名で呼ばれてきた
日本ではヒエ、アワ、ソバ、ダイズ、アズキを中心にムギ、サトイモ、ダイコンなども加えた雑穀栽培型の焼畑農業が一般的である。焼畑の造成はキオロシと呼ばれる樹木の伐採作業から始められる。耕作地を更地にした後、しばらく乾燥させて火を入れる。その後に播種するが、1年目はソバ、2年目はアワ、といったように輪作されることが多い[24]。耕作期間は3 - 5年で、その後、植林して15 - 20年間放置し、地力を回復させる。


椎葉さんが営む民宿焼畑に宿泊したのは立春前。夕食には椎葉村で受け継がれてきた伝統食が並びます。ヤマメの背ごしと地鶏のたたき。干したけのこのきんぴら。大根と芋、たけのこ、こんにゃく、椎茸の煮物。山菜の三杯酢漬け。金柑。大根の葉、ヒメジオン、ヨモギ、ムクボカヅラ、ハハコグサ、セリなどの山菜の天ぷら。ノビルと柚子の漬物。ごぼうや椎茸、イリコで出汁をとった「わくど汁」には、ソバを茹で柔らかく溶いた団子が入っています。
そして翌日の朝食には、前日に抜いた平家カブの味噌汁と、平家大根のおろしが添えられていました。椎葉さんの言葉通り、大根おろしはピリッと辛く、ヒエご飯が進む力強い味がしました。

。第一は大陸との交渉が著明でなく,農業の痕跡のない期間,第二は大陸との著明な交渉を持ち,農業の一般化した期間である。前者は縄紋土器の文化に相当し後者の最初の段階が弥生式の文化である」として,特筆すべき事項に@大陸との交渉とA農業による新生活手段の二点をあげた[山内 


暖流の影響を受ける東北南部の海岸部や関東地方の平野部まで照葉樹林はひろがり,また照葉樹林の中にも二次林としてコナラなどの落葉樹林が成立するエリアも存在するのである。この状況は安田氏の森林帯気候の分布図でも明らかに示されている〔安田 1982〕。
落葉樹林帯ではカタクリやウバユリ,ヤマユリなどの野生種を利用するデンプン採集が存在したが,そこからは重要な栽培植物は出現していないという。また照葉樹林帯のタロ系統やヤム系統のイモ類は東アジアの暖温帯に起源があり,そこで品種分化したもののうちわずかな系統のものが列島に伝播した栽培植物だといわれているので縄文時代に存在した可能性は少ない。イモ類は熱帯では主食として利用されるのが多いのに対し,暖温帯ではおかずとして利用されることが多い。

生業からみた縄文から弥生 藤尾 慎一郎

秋田縣の北部より青森縣に亘るマタギ聚落に嶢畑が多いのはマタギを主生業とし焼畑を副とした時代の名残とも見られる。
北上山地の名子と焼畑とは密接な關係がある。この關係は山形縣や幅島縣の一 部に於てもみられた。貧窮者が山小作にて一 部を
焼畑とし,凶作に供へ、生活を支へるのである。

東北地方の焼畑

稲作は前一万年頃縄文時代に種子島ルートで焼畑陸稲耕作が伝わり、前五世紀頃縄文時代後期に北部九州から水田耕作の文化が入ってきた。

対馬の豊玉の津を拠点にする「安曇族」の「豊玉彦命」は島根半島を拠点にする「安曇族」の「穂高見命」と一体化し島根半島から糸魚川(めのおの原産地)に移動入植し、さらに糸魚川を遡上し穂高岳に降臨し、安曇野、信濃の諏訪(黒曜石の原産地)を開拓し、「穂高見命」と兄弟の「振魂命」はさらに日本海を北上し新潟へ移動、入植して阿賀野川を遡上し会津若松に降臨し、猪苗代湖盆地を開拓し、兄弟共に東北の渡来弥生人として活躍した。

縄文・弥生文化を運んだ海人族と渡来先住民(鴨族)の共生

わが国の山地には、古くから、おそらく縄文期以来、伝統的な農耕形態として焼畑が広く営まれていた。近世以前には面積にして20万町歩(約24万ha)を超え、昭和25(1950)年ごろでも5〜6万haにおよんでいたとされている。「むさし」の「さし」をはじめ、東京付近にたくさんある「さす」「さし」のつく地名はいずれも、かつての焼畑の存在を示すといわれるほど広がっていたのであり、近世に確固となる小農自立の重要な基礎となっていた

日本人は焼畑民族だった説


そもそも焼畑はどこから伝わったのか、それは図を見るとミャンマーとかから中国の山岳地帯の雲南から揚子江地帯になる、その揚子江地帯から稲作なども伝わったとされている、気にかかるのはミャンマーの言葉と日本語が似ているという、実際にここにきたミャンマーの人は日本語が上手に話していたのである。やはり日本語と似ているからなのかとなる

●飯館村の山津見神社と佐須の地名解読

文化的には照葉樹林帯の文化になりそれが焼畑をしている人たちであり稲作をしていた揚子江の地域から日本に伝わった。
その橋渡しをしたのが航海などにたけた海人族でありその氏族が安曇族であり日本の山中深く入ってきて土着した
それを証明しているのが綿津見と山津見神であり移動してその地名を残しているのである。
松川浦には和田と山津見という地名がありそれは和田とは綿津見であり二つが対になっているのである。。
この神は一体であり安曇族が奉じる神でもあった。
その移動する経緯が地名化していたのである。
まず南相馬市の原町区は綿津見神社が多い、なぜこんなに多いのかとなる。。
そして山の方の大原にも綿津見神社があった。そこから八木沢峠に行くのだがその八木沢とは安曇氏の後継となる八木氏なのである。その八木氏から矢木沢となったのである。
他にも宇多川を上ると八木原がありこれも八木氏のことなのである。
他に霊山の近くに犬飼という地名がありこれも安曇族の後継者なのである。だから古代の氏族名は地名化がしやすいのである。最初の入植者だからである。
そして焼畑をしたのは佐須であり焼畑地名として残されている。

万葉集」巻13の3270に「さし焼かむ、小屋の醜屋」とある。「さし=焼き畑」。武蔵国の国名も、古くは「ムナザシ」で、焼き畑地名と考えられている。【中世の村のかたちと暮らし 原田 信男 角川選書】

柳田邦男の「地名の研究」によると、「そり」「そうり」は焼き畑を林に戻した所の意味
【かの・かのう】: 「鹿野」「叶」
・ かの(かのはた): 山形県、新潟県、福島県、栃木県。
・ かんの: 新潟県北部、大分県北部(大分県では「さし」とも言うんじゃないか?)

焼畑を示す地名は他にかのとかいろいろありこばというのもそうである。小林のコバである。
だから安曇族の後継者の八木氏が八木沢をのぼり飯館村に入った。
また真野川をのぼり飯館に入ったのである。もう一つは宇多川を登り霊山の方に出て石戸村に入った。そこに犬飼(犬養)という地名がありそれはやはり安曇族の後継者であるからだ。
このように安曇族の後継者の跡が神社や地名として明確に記されているのである。
そして佐須とかは焼畑地名であり他に比曽とかもそうである。飯館村は森が多いから焼畑には適していた。まだ山津見神社の祭神が狼なのは焼畑と関係していて焼畑で作られる根菜類が他の動物にイノシシとか猿とか鹿に食べられるが狼は食べない。狼は肉食でありむしろ鹿とかお食べるから焼畑の芋でも食べられることから守る役割になったので崇められたともなる

●照葉樹林帯の海岸地帯と寒冷地帯の飯館の相違

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飯館村は標高が400mくらいと高い。南相馬市となると海岸沿いであり津波に襲われたように低い倒置である土地である。
飯館村は涼しい高原地帯でもある。でも冬は寒冷地タイとなり稲作には適していない。その植生も寒冷地隊の者であり気にしても寒冷地タイの落葉樹とかになる。
一方で浜通りは照葉樹林の限界地点でもある南限の地でもある南の限界の地でもある。それで奄美大島からなど種が流れ着いて丸葉シャリンバイが海老村に自生したのである。
それは暖かい地域だからである。その気候は人間に大きく作用して風土を作り文化を作るのである

それでみちのくの真野の萱原の万葉集の歌はその風土の気候の境界線だったのである。照葉樹林帯の境界線だったのである。
真野川の上流で栃窪の奥からサンゴの化石も発見されている。
その相違がありこの地域の変化を作り出しているのである。
飯館村は森が深く縄文時代から人が進み縄文中期の遺跡も発見されているから相当に古い時代から人が住んでいた。
海岸地帯は貝とか魚とか恵まれていたがむしろ縄文時代になると森の中で暮らしていた人が多いなる。。
森の中にはどんぐりとか栃の実などがあり他にも山菜などがありまた百合の根とか食べるものがあった。
ハマグリの語源・由来 ハマグリは形が 栗 の 実 に似ており、浜辺に生息していることから「浜栗」の意味が定説。

栗からイメージされたことは山の住民が浜にでて」なずけたともとれる、その起源は山に暮らした人が名付けたからそうなった

植生的にも飯館村は寒冷地帯になり浜通りとは違った違っていたのである。森が深いし樅の木などが育ち北方的要素がある
ただ寒冷地帯になるから稲作にはむ向いていない。それで飢饉になったりもした。どちらかというと焼き畑による根菜類の栽培にも向いていたともなる。山の幸で暮らしていたとなるからだ。
ともかく飯館村の魅力は森が深いことでありだからこそ山野草でもギンランとかが咲いていたのである。
人間が生きるということは食糧の確保が第一である。
それで彼岸花がありその根を食べられるとしても毒にもなっている
その毒を抜くことに苦労する。でもどうしても食べたいから苦労しても死ぬことがあっても食べていたのである。
はまなすでも名前は実が取れるということでその名がある
花より実の方が大事である。花より団子になるのである。それだけいかに食べることに苦労してきたかである。ただ風流からなど自然を観ていないのである。風流から見るということはそれだけ心に余裕ができたときそうなったのである。






posted by 天華 at 21:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村
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