なぜ本が捨てられないのか
(本は物体ではなく言葉であり精神を表象化したものだから)
●カメラより撮った写真の方が貴重だった
本が捨てられなくて困っている。例えば古いものカメラなどはほかの危機でも機械でも機器でも古くなったものは捨てられる。
別にそれは新しくいいものを変えればいいからである。
新しいもの新しい機器の方が性能も良くなっているからである。
そのカメラより機器より大事なものはカメラだったらその記録したものであった。それはビデオカメラでも記録したものが実際は大事なものであった。
なぜなら津波の前と津波の後の景色がまるで変わってしまったからである。となると津波の前に写真としてでもビデオとしてでも残した風景画の記録として貴重なものになったのである。
ただカメラはそのの風景を残すものとして記録するものとしてあった。カメラ自体は古くなったので捨てた。
カメラよりその写したものが貴重なものとなっていたのである。
それは外国旅行の写真でもそうだった。もう私の場合年をとりとてももう外国旅行することができないと思ったからである。
そして外国旅行というのはなかなか記憶に残りにくい。それは日本と風景でも歴史でも変わっているからなかなか印象として記憶として残りにくいからである。
日本だったら一回でわからないことでも2回行くと理解が深まる。
そのの歴史でも後から調べて理解を深めることができる。
でも外国になると一回くらいしかいけないから印象が時間とともに薄れて記憶することが難しいのである。
●本で家が傾きずれた―本は重いが電子本は重さがない
そして本でも家が沈むとか傾くとか大工さんが言った。どうしてもその重さで2回大きな地震を経験して家が歪んでしまったのである。その原因は二階に置いた本の重さが影響していたのである。
本の重さによって下に影響して地震があり柱がずれたのである。
それだけ本というのは重いからそうなる。本はは本当に重いのである。厚い本がありそれを運ぶのも重いのである。
そして本がなぜ捨てられないのか?それは本が紙というものにしろものと違っているからである。紙に書かれたものは別にものではない言葉なのである。紙はものであり表紙でも装丁で紙である。つまり本というのはもののようにも思うが実際はものではない。文章であり絵も描かれてたり写真でもある
だからものではないから電子化すればいくらでも本を手元に置き参考にできる。重さはそこでなくなるのである。電子本には本の重さがなくなっているからである。実際の本と電子本の違いは重さがなくなり物として手に取ることができないことなのである
でも本というのは何か物として物体としてあると思う
でも本を読んだ本に書かれたものが文章がその本体でありその文章は電子化すれば重さがなくなるのである。本は持ったり触ったりページをめくったりと何か物体としてある感じになるが実際は文章が大事であり本でなくても紙でなくても文章が本体であるから電子本でも読むことができるのである。
それは絵でも写真でもそうである。それが紙に描かれていなくても電子化すれば映像になり本がなくても絵がなくてもいくらでも表現ができて重さもないからかさばることもないから保存できるのである。
●電子化で怖いのは一瞬ですべてが記録が消えること
でも電子本だと何かの調子で故障があったりすると一瞬にして消えるという恐怖がある。
本だとそういうことはない。何か物として残り続けるという感覚になる。それで石に文字を刻む時それは石はなかなか消えたりはしない。だから石に刻まれた文字はなくならないという感覚になるのである。
それで江戸時代の元号のが記された石碑がありそれは200年であり300年であれ消えずにその場所にあり残っているのである。
でも電子化された文であれ絵であれそれは残るのだろうかという疑問になる。
なぜなら一瞬で全部消えるということもあるからである。だからせっかく創作したものでも電子がしても一瞬で消えて何も残らなくなってしまうのかと不安になるのである。
だから電子本とか電子化したものに何か不安を感じる。でも本だとがさばり重いしそれを一個人が所有することは限界がある。
本は膨大でありとても所有しきれないのである。電子本にすれば重さもないからいくらでも所有できるのである。ただ弱点は電子本の場合一瞬にしてすべてが消えてしまうという不安なのである。
●一冊の本でも理解することがむずかしい
とにかく本は捨てにくいし整理するのも容易ではない。そして本は若い時であれ読んだものを理解していない。でも年を重ねて経験を積み老人になると理解力が深まる。それはそういうことだったのかとおのずと理解できるようになる。
だから老人は批評に向くようになるのである
それから30年前頃買った本がの作者がすでに死んでることが多いのである。するとその人が残したのは本でありそれ以外にその人を知るすべがなくなる。
大概の人は本など残せない。本を残せたのは限られた人でしかなかった。それほど本は簡単に出版できないし作れないものだったのである。でも今になれば一冊でもアマゾンで本を作れるらしい。それで自分も試してみようとしている。でも手間がかかり時間がないのでなかなかやれないのである。
今ならインターネットで電子化して誰でも発表できる。ただ読まれることは本当に難しい。出版というのは簡単にできない。たとえ本を作ったとしても書店になど勝手に置けないのである。
でもインターネット化すると誰でも別に表現することができる。
それができたとしても読まれることが至難なのである。インターネットが普及しない前は田舎の本屋など本当に本が少なかった。専門書など置いてない。仙台市まで1週間に一回も言っていたのは本を買うためだった。でも仙台市でも実際は本は少なかったのである。インターネットが普及してわかったのはアマゾンなどで分かったのは信じられない量の本があり古本もあるからその膨大な本があることに驚いたのである。
もしそうしてそれだけの中から自分の追求している本を買ったらもっと自分の知識は広がり深められていたのである。
●くだらない本が百万部も売れていた時代
例えばどんな本が売れていたかというとベストセラーになったかというと冠婚葬祭とかいう本は百万部も売れていたのである。
そんな本がなぜそんなに売れたのかそれはその本の内容とは何の関係もない。ただベストセラーとして宣伝され田舎の書店にも置かれたことで売れたのである。全国の書店に置かれただけで別に内容がなくても売れた時があったのである。
また出版社が宣伝して全国の書店におくことで内容はなくてもベストセラーになって売れていたのである。それでしょぼい田舎の書店でも商売が成り立っていたのである
今や本屋は田舎の市町村では消失している。あまりにもアマゾンとかに比べると本が少なすぎるのである。また古本の量もインターネットでわ膨大であり買えないものはない。すると新刊の本でもすぐに古本になり安くなり帰るのである。そうなると本屋から買うということは損だとなってしまったのである。だから書店は大きな書店ですら消滅しているのである
依然として私の家の中の整理は続いていた。特に本の整理は簡単にできない。簡単に捨てることができないのである。というのは読み返してみるとほとんど理解していない。初めて読んだようにする思えるのである。それだけ本というのは理解することが難しいのである。それでびっしりど印をつけているのだが実際はそのしるしをつけたことを理解してないし忘れてしまっていたのである。
つまりその本を読んだことは読んだのだが理解していなかったとなる。ただ本を集めたというこうとうがすることになる。
だから本というのはほかの品物と違ってそもそも買っても理解力がなければ利用していないとなっていたのである。
それだけ本というものは内容はありそれを理解する方が相当な力量がないと理解できないのである。
それで本は30年過ぎても40年過ぎてもその本の内容を深く知るということができていない。たいがいものだったら機械でも古くなり捨てることができる。本はその内容を理解できていないからまた理解しようとして読む。年取ると理解力が深まるからそういうことだったのかと理解するからである。まだ芸術でも鑑賞力がついて深く理解するようになるのである
今や最後の総決算として本でも創作でも自分の成果をまとめようとしている。やはり最後にその人の成果が本に残す。ほんでなくてもインターネットの中でも残すとなる。それは出版できなくても残せるからである。
タグ:本で家が傾く 本の重さの問題 活字の本と電子本 カメラより撮った写真が貴重 電子化されたもの恐怖 一瞬で消える記録 読み返す古い本 本を理解することのむずかしさ 老人は理解が深まる 老人は批評い向く 本の作者が死んでいるのが多い 人間は何を残すのか 一冊の本を残して死ぬ
【テレビや新聞、本、買い物、インタ-ネット批評(メデア論)の最新記事】