花爛漫霞城の詩―山形市の歴史をたどる
伏見城に伊達政宗の屋敷と最上氏の屋敷があり並んである、最上通りとあるのも存在感があったからだろう
秀陸伏伊市月残優一桜堀城桜 桜
吉奥見達中山雪艶本不巡門花 花
承大城併往秀峰姫枝尽城石爛 爛
認藩下存時麗々一垂万内垣漫 漫
日英威最栄神屏服桜来広高霞 霞
本雄振上地妙風茶長客大花城 城
春有也大名美映献哉満也影入
花爛漫霞城
彼方山形へ電車は一路走る
残雪の峰々を望み海走る
面白山の長いトンネルを抜けて
山寺へ山形へ入り霞む残雪の連峰
若草は映え桜の盛りに
花爛漫や山形城(霞城)入る
その堀長く囲み平城の大なり
その内城の広々として往時の栄を偲ぶ
天下を制す秀吉の時代伏見城下に
伊達60万石と最上57万石の屋敷
相並び陸奥の威勢を示すかな
三日町六日町七日町八日町十日町旅籠町・・。
城下に商人集い市は立つ
最上川の水運ありて紅花の京都に運び売る
その栄いし時や今桜は盛りに錦かな
月山のなお雪厚しや美秀神霊の宿る山
春の霞に浮かび花に覆われ花に良い夢心地かな
一木城内に枝垂桜の古木や優艶に
ここに陸奥の広くも一国あり栄えぬ
伊達と並びて栄しものちに跡目争いに小藩となる
これもまた世の習いや悲しも往時の堺栄いを偲び
城主は度々変わり商人の街として栄えぬ
また湯殿山などの信仰の宿場として人を集めぬ
我は仙台をまわり相馬に帰りけるかな
山形県の歴史は何か明確な特徴がない、それは確かに最上義光の時に57万石に統一したがあとは跡目争いがあり分裂して小藩になった、また他藩の領主が治め幕府領ぬなり一貫した歴史が築けなかった、そこが伊達氏とか会津とかと違って何か歴史が一貫したものとして形成されなかった。
相馬氏は一貫して相馬藩を維持して代々相馬氏が治めた、それで相馬藩政記は外部のものでも参考にしている
最上義光の騎馬像があっても伊達政宗のような存在感はなかったとなる。
ただ城跡は長い堀に囲まれている。その城内広いからやはり57万石の大藩だったと感じる。
でも実際は城下町というよりは商業都市であり武家の城下町という感じではなかった。だからこそ市が立ちそれが城の周りに地名化したのである。
その主な商品が紅花であり最上川を通じて京都に運ばれたのである。
それから月山とか湯殿山参りの宿場町にもなっていあた
なぜなら本当に東北のいたるところに湯殿山の碑wあるからである。なぜこんなに多いのかとなる。湯殿山は湯治にも農民が村の仲間と行った、そこで日ごろの労働と苦労を癒す場になっていたのである。それは東北全体にありそれだけ湯殿山は信仰の場にもなっていた。
語られぬ 湯殿にぬらす 袂かな 芭蕉
この句でも不思議なのはみちのくを旅してそこに住む人たちの心に通じていたことである。奥の細道の魅力は東北という地域に深く一体化したことである。それが一度の旅で成しえたことの謎がある。旅をしても今でもこれだけ交通が発達してもその土地と一体化できないからである。車の旅だとただ通りすぎるだけにもなるからである。
おそらくかえって交通が不便だからこそその土地と一体化したともなる。そこに逆説がある。現代の旅はあまりにも交通が便利になったかえってその土地土地のことが深く感じれなくなったのである。