津波から12年桜咲く常磐線沿線を行く
津波より十二年すぎ海向い桜咲く朝なごみけるかな
車窓より山桜見つ走りゆく咲きつづけて音の高鳴る
我が町に働きつづけて死ににけりその人なしも駅に帰るも
津波から十二年過ぎたということは12歳の人はもう津波のことは知らないとなる。それは親とかからの話を聞くだけになる。
20年もすぎたら20歳になった人は津波のことは知らないとなってしまう。ただいろいろと記録は映像でも残されているから簡単には忘れることはないだろう。
ただ人間の弱点は忘れることなのである。全国を旅したとしてもその行った場所を思い出せなくなる。だから思い出すには行った場所にもう一回行くといい、記憶が蘇るのである。
江戸時代だったら遠くには一回くらいしかいけない。今なら交通発達しているから何度でも行ける。だから近くになると何回もいけるから記憶が蘇る。そして必ず新しい発見がある。
人間はともかく意外と近くでもよく観ていないのである。今回でも山形には必ず寄っていたがよく見ていなかったのである。
月山は山形県から山形市から見えると思わなかったのである。
こうして人間は何でもよく観ていないのである。
津波のことでも原発事故のことでも経験した人は12年過ぎてもまだ生々しいものとなっている。特に津波で家族が死んだ人や他でも死んだ人がいるとその商魂は傷跡はなかなか消えないとなる
とにかく今回は山形まで行ってその後で体調不良になった。
前も歩いて足が腫れたのであろ。そして体全体の不調に見舞われた。ただの電車の旅でもそうなったのである。だから体力の限界を感じたのである。 75歳になると介護状態になる人が居ることが理解した。何らかで体が前のように働かないのである。これもショックだった。
どうしても体が前のように動かなくなる。そして肉体労働となるとできなくなる。旅でもなかなか遠くになると行けなくなる。そういうことでやはり若いうちにやりたいことはやっておくべきである。いくら金と暇ができても体力がなくなると旅するできなくなるからである。
そういうことで今回はショックを受けたのである。
わが町に帰ってきても駅に帰ってきても自転車屋の星淳氏が死んだので店はしまっている。
それもさみしいとなる。家族にしろみんな死んだので誰も待ってくれる人はいない。何か駅前の自転車屋は駅と結びついていたのである。なぜならいつも駅を見ていたからである。それで駅のことを駅のことをよく言っていたからである。だから駅には何か思い入れがあったとなる。
それで帰ってきてもその人がえるような感覚になるのである。
それだけの存在感を持ったのはやはり小さな町であり一軒しか自転車屋なくなっていたからである。それで貴重なものとなり死んだ後でも思うようになったのである
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