春の日に太田神社-岩屋寺- 馬場-高倉-大谷-大原を行く
(梅匂う道と家の跡の不思議)
太田神社の前の倉
岩屋寺
馬場の樅ノ木
高倉から大谷へ
横峯の堤
寺内の牧の馬
この馬は必ず人が来ると寄ってくる、人に慣れている
街中に初音を聞くや田舎町
初蝶や自転車に走り郊外に
道々に蝶の舞いでて走り行く
紅梅や馬走り来ぬ牧広し
春の日や石の倉古り何の紋
禅寺や梅の匂いて黙す石
菩提寺に梅の匂うや参る人
春日さし墓地も穏やか里めぐる
誰か棲む家の跡かな組む石の残りて匂う梅の花見る
屋敷跡石の残りて春日さす主はなしも石は去らじも
忠実なる下僕(しもべ)のごとく主さる家の跡にし石は残りぬ
誰か棲む家の跡あり隠されて梅の匂うや人は去りにき
家の跡庭に蝶来て鳥も来ぬ人は住まじも春となりしも
二本の樅の木ここに根付きけり古き碑ありて春の日さしぬ
山中に梅林隠され匂いぬ雉のいでしも人影も見じ
紛々と梅の匂いぬ山中に隠され人も来たらず匂いぬ
横峯の堤の広く春の日の映り輝き里の暮行くゆく
太田神社から岩屋寺へゆく、太田神社の前に石の倉があった。
石の倉は多い、それが地震で壊れたのも多い、この石の倉は壊れていない、でもかなり古い感じになる。
ここには紋がはっきりしないがたいがい紋がある。
ただ石の倉は明治以降できたものらしい、なぜならその頃大谷石とかが出回ったためだとしている。江戸時代からの倉は土壁だからであるただ地震に弱かったのである。
岩屋寺は禅宗の寺である、山門があり山で修行したからこれがある。それは中国から入って来たものである。
禅宗は中国と関係しているから茶とかその他中国由来のものが入って来ている。禅宗は簡素であり座禅を組み悟りを開くとなり
それが自分に合っていたのである。なぜなら私は引きこもり沈黙業をしてきたからである、そこで社会性がなくなったマイナスがあった。宗教でもいろいろな派に分かれるのは人の性格性質がありその合ったものがいいからそうなる。
ただ寺というのは官営の寺に江戸時代になった。寺は役所の一つだったので幕府から優遇されたのである
そのために明治維新で廃仏希釈が起きた、神道派が幕府から優遇されなかったのでそうなった、寺には武家の菩提寺になったからでもある
ただ今や未来の年表でも寺自体が消滅してゆくと警告している。
その役割が消失しているからである。武家の菩提を弔うのが寺だとしたら江戸時代ではないのだから継続しないとなる
そこから一軒の家の跡がある場所に寄った、そこは前に竹林があり隠されるようにあった、だからなんか不思議だった。
組まれた石がありそこは農家だったのか?
それほど広いとも言えない、この辺だと街でないから農家だったのかもしれない、何かこの辺では空家が多い、これは全国的なものだが原発事故があり人が避難したからである、でもここは避難区域になった小高区ではない、羽ら原町区である。
ただ農家でも空家化しているのを見かける、津波の跡の家でも石だけは残されて残っていた、何か石が人間化して忠実な僕(しもべ)のようにして残っている感じになる。
一旦人間が棲むと自然のものでも人間化するのである。
主がいなくなっても石はそこに忠実に残っているともなる
そこの家の跡のすぐ近くに黄金神社があった、これは何なのか?
鉄とか関係していたのか、ちょっとわからない
それから馬場の方へ出たら樅の木が二本力強く根付き立っていた
この碑は元久と読むのだろうか?
元久だったら鎌倉時代になるからあり得ない、元処は元の所であり元住んでいた場所のことかもしれない、これも分からない謎である。
次に高倉から大谷から大原の方に向かった、その途中に梅林があり紛々と匂っていた、雉も出てきて匂っていた、何とも至福なものを感じた、その道は細く梅の咲く道だった。
こうして自転車でぶらぶら行くのが気持ちいい季節になった
ただ歳になり腰が痛くなったりする。でも近くならそれほどの影響はない、近くでも依然として何か発見がある