里に老ゆ(春霞、春満月、梅香る)
芬々と梅の香るや里めぐる
春霞長生きの世や里に老ゆ
春満月輝きまして移るかな
同じ年老人と話す春の里
人ならじ満月のぞく我が部屋や書き物しつつ春となるかな
紅梅の匂やかにして満月の今日も輝き災いなかれ
病より回復せしや春となり歩く喜び買い物に行く
昨日は春霞だった。その前は満月が輝き紅梅が匂っていたんとも春らしい。
長生きの時代も問題は多い。でもこの長寿というのは人類の願いだったのである。なぜならこれまでは早死にだったからである。
とにかくみんな長生きする。苦労して死にたいという言っていた人が脳梗塞になりそこから回復した。その人もやはりいきたいのである。いくら死にたいと云ってもやはり人間はいきたいのである。特に病気から回復したときはそうなるのである解除
一昨日も昨日も満月が輝いていた。その満月が私の部屋を覗いていた。それはいいことである。でも人間が覗くとそこに嫌なものが出てくる。田舎の人間が素朴だとかいいものではない。
ただ四六時中監視してるということがある。そして必ずしも助け合うということは今はない。。かえって人の不幸が楽しみになるのである。ただ田舎の場合自然がありそこで和むのである。
この辺で節水を南相馬市で呼びかけた。確かに雨が今年になっても降らない。雪も一二回降ったがそれはそれでも足りない
乾燥している。だから朧月というのを観ていない。
これから田植えとかあるので水不足になると困る
でも水不足というのはほとんど経験していない
しかし水不足というのも起きうる。山に行くといくら水不足でも水が流れていることに感心した。それはかなりの山の奥だった。
山には水が蓄えられている。だからソーラーパネルなど山に作ると何か影響する。水が蓄えられないとか水は流れだすとか何か自然に悪い影響がある。景観も悪くなるしそれが問題なのである
ともかく里に生きるということそれは幸福なことである
都会にはそういうものは無い。ただ田舎がいいものにはならない。ただ自然がありその美になごむのである。
そして同じ年の老人と話す、その人は農家の人であり農業の話を聞く、それがいいのである。
やはり家で納豆を作っていた。買った納豆は食えなかったとか言っていた
そうなのかと思ったが自家製でもうまっかったということである。
そういう話がおもしろいのである。
原発事故はその里を奪ったのである。ただそれも電気の時代となり農業の時代でないからそうなったともなる
でも里に生きるということそれが幸せだった。でも近くに移住すればやはり里はある。都会に移住すれば里はなくなる。里を失うということは何なのかそれが自覚できなかった。でも時代がそうしたともなる。すでに里というのは失われていたともなるからだ。