人間を作るの体験、老人の価値は何を経験したかで決まる
(旅も体験であり貧乏旅行も金持ちの旅より価値があった)
●旅の経験は金がない旅も金持の旅も価値は変わらない
人間とは生きるとはそもそも様々なことを体験することである。
知識はその後についてくる、何かを体験して疑問をもったり体験することから学問も始まる、この世には無数のわからないことがあり必ず疑問になる、だからまず体験があり経験があるのが人間が生きることである
だから旅になるとこれも体験なのである。私が地名に興味を持ったのは旅をして鉄道の駅などの駅名に興味をもったり地名に興味をもったのはそのためである
また地形と風土に興味をもったのもそうである。それは旅した結果なのである
そして誤解しているのは旅する時、今は便利過ぎて旅が消失したのである。
本当の旅を経験していないのである。車だと途中を省いて通りすぎるだけになる
だから旅というものではなくなる、移動なのである。それで旅館でありホテルに泊まることが目的にもなる。そこで何をするのかとなると食事を楽しむとなり料理を楽しむのが目的だとなる、それでホテルをテーマにしたコンサルタントがホテルを再生事業にかかわるとき必ず料理を問題にしているのである。
もともと旅は歩いているからこそ旅だった。まず今は歩くことがなくなった。
近くでも歩かないのである。私も買い物にするのに近くで歩かない、自転車になる。
他の人は車になる。だから商店街は廃れたのである。
車が通っても素通りするだけだとなる。
草臥れて宿借る頃や藤の花 芭蕉
これは歩いた感覚から生まれたのであり車に乗っていたらこういう句はできない。
現代は旅というのか消失したのである。だから旅人もいない、いるのは車とかで移動する人であり旅人ではないのである。だから旅は道連れとかはない、車だと会話などしないし瞬間的に通り過ぎるだけだとなる。旅は道連れ世は情けなどもない。人間的出合いもなくなったのである。
そしてなぜ最近温泉街が廃墟化した映像がyoutubeででている。会津の東山温泉でもそうだし飯坂温泉でもそうである。それは高度成長時代のバブルの夢の跡のようになってしまった、その時景気が良く団体旅行でにぎわっていたからである
そのために大きなホテルができて歓楽街のようにもなっていたのである
それが会社の団体旅行もなくなり寂れて廃墟化したのである。
その頃から旅の宿ではない、会社の団体のために用意された歓楽街となっていたからである。だから本当にそれは夢の跡となってしまったのである
今本当の旅を体験することは至難である。まず一か月くらいの自由な時間が必要となると会社員には簡単にできない、だからバイクとか自転車とかだと旅する感覚になる
ただバイクも車と同じように早いから途中が省かれる、旅の感覚にはならないのである
だから不思議なのはこれほど移動する社会でも旅というのは喪失したのである
新幹線で一気に平泉であれ青森までであれ行ったとしてもそれはあくまでも移動なのである、旅ではない、だから芭蕉のような体験はできない、便利になりすぎて結果的に深く自然でも歴史でも感じなくなったのである
旅で不思議なのは旅の経験は必ずしも金をかけなくても体験できるし金をかけてもかえって体験できない、テレビで京都の外国人を泊める一泊10万なのかホテルを紹介していたがそこで体験するものが果たして貴重なものとなるかどうかはわからない
まだ豪華な船でクルーズしてそれが後で貴重な経験となっているかどうかもわからない
豪華列車の旅でもそうである、だから何でも金をかけたからといって体験をできるとは限らない、そういうものは金持ちの老人には向いている。
でも若い時に体力がある時に金がなくても自転車で日本一周したとかが大きな体験であり後でその体験が貴重なものだったということをふりかえる。
だから体験の価値は金で計れない、金がなくても旅の体験はできる、私は自転車旅行でテントを積んで寝泊まりしたから金はかからなかった、でもその方が体験として記憶に残ったのである。
蚤虱(のみしらみ)馬の尿(ばり)する枕もと〉芭蕉
これも体験であり貴重なのである。金をいくらかけて便利な旅をしても旅の体験として貴重なものとなるとは限らない、それも一つの体験だから否定はしない、でも金をかけなくても旅はできる、金がないから旅ができないということはない、むしろ金より時間と体力があれば本当の旅を体験できたとなる。人間はすべて金では得られない、確かに豪華客船の旅も一つの体験である。特に外国だと旅もむずかしいからそれも体験である
でも余りにも便利で恵まれているとそれも何か贅沢すぎてかえってその体験が浅薄なものにもなる。
●人生とは何を経験体験したかである
結局人生とはどういう体験をしたかということでその人生の意義が見える
もしコロンブスのようなまた船で未知の国に行く体験をしたとしたらそれこそ人生を生きたとなる。そんな体験は今はできないからである。安全であり船が沈没することないからである。でも人生が生きたという醍醐味をがあるとしたらそういう危険を乗り切ったという冒険にあったとなる。
例えば聖書でも理解しようとする、でもいくら隅から隅まで読んでもわからない
なぜなら苦しむ悲しむ経験をしなければわからないからである。また奇跡があったとしてそれは事実であり体験したことを記したのである。それは空想ではなかったのである。
だからこそ価値がありその体験の価値があって聖書が読まれ続けているのである
まず体験しないと神も知り得ないのである。何か危機的な体験をしたりするとわかることがあるからである。
結局人間が生きることは体験することである。知識でも体験するからこそ身に着く、それでいくら勉強しても受験の暗記の勉強をしても現実に直面して挫折する
現実の問題を解決できない、現実の問題をどう解決するのかがわからないとなる
人間はやはりいろいろ体験することが人間を作る、大学とか無駄なようでもそれも一つの体験である。文系だと遊びの場だったとなってもそれも体験である。
だから高卒の人は大学のことを体験していないから理解できないのである
そこに人間の幅がないということがある、人生の一時期そうした自由な遊びの空間で過ごすということも経験なのである。ただそれでギャンブルにはまってしまったというマイナスの面もある、でも会社に入るとそういう体験はできなくなる。
だから留学体験とか外国で生活した体験がある人とない人の差が大きいのである
そういう人達は実感として外国を知っているからである。本を読んで知るのとは違っているのである。
農業などでも体験である。実地に農業している人の方が学者や学生より知っている
実地に農業を経験しないと農業のことはわからない、いくら本を読んでもわからないのである。別に学校で農業を学ばなくても家が農家なら実地に学ぶ機会があるから有利になる学校だけで本からだけで学べないからである。
人間を作るのは体験であり知識だけでは作れない、明治維新は侍が成したものでありでも官僚化して学問できるものが指導するようになったときおかしくなった
余りにも知識に重点を置きすぎたからである。そこに人格とか人間の資質などがないがしろにされた。そしてモラルも消失した。それは現代にもつづいている。
受験戦争の暗記だけの教育が人間をだめにしたとなる。
やはりそれは現実社会での体験をしない、頭だけで処理しようとすることで問題になったまた高度に専門化した結果頭でっかちとなり指導できなくなったともなる
それは個々の人間の問題ではなく文明全体の問題ともなる
現代は体験が希薄化している、頭だけで知識が優先されて体験が不足している
頭でっかちになりすぎたのである。膨大な知識でも消化できないのである
その知識でも体験がない活かせないのである。
ともかく旅も体験でもその旅の体験自体ができなくなったのが現代なのである。
なぜもてなしがあったかとなればまず旅人が宿に着いた時足を洗うのは歩いて来て埃りに汚れているからである。もてなしというときそういうふうに疲れているからもてなしがあった、車で来た人にはそういうことはない、するともてなしというのもなくなる
疲れたでしょうということもないからである。車でも疲れることはあっても歩いて来るのとは相当に違っているからである。
第一自転車旅行なぢしている人はまともでないとなる胡散臭いものとしていやがる。
ネクタイして背広をぴちっと来ている人が歓迎されるのである
でも今になると旅も一期一会であった,泊ったのも一夜だけであり後は泊まることもない、そこで親切にされたらうれしいとなる。でも今こうして旅する人自体いなくなったのである。
宿でもそんな人は相手にしないのである。だからテントが必ず必要なのである。
●体験が人間を作る
結局人間を作るのは体験である。それは必ずしも金をかけたからできるものではない
山に登るにしても体力が必要であり今になると年取るとできなくなったからである
だから激しい運動は若いうち体験していないと後でできなくなるのである
何でもできるように思えてもたちまち時間は過ぎてしまうのである。
体験というとき職業でも体験である。医者になるにしてもいくら学校で学んでも現実患者を診るとなると体験なのである。だから手術となると場数を踏んだ人がうまいとなるのはそれだけ体験を積み重ねて会得したとなるからである。そのために失敗したこともあるとなる
ただ正直人間はあるゆることを経験できない、先生に成ろうとしても免許が必要だなにかにとできない、要するに経験ができないのである。
それで自分は引きこもりになった、でもまたこの引きこもりも経験なのである。
そんなこと経験なのかとみてもやはりそれも特殊な経験だとなる
みんなが必ずしもなるわけでもないし高度成長時代に引きこもりなどほとんどいなかったからである。今や引きこもりは一つの時代の兆候だとなっている。
そこに問題があるにしろそれも一つの生き方だとまでされる時代にもなる
でもそこには是非があり大きな問題がひそんでいることも確かである
いづれにしろこれからは物でも飽和状態になっている、観光でもいかに体験するかである豪華客船の旅の体験だから否定はできない、でも旅の体験となるといろいろあり本当に旅を体験することは喪失しているのである。
目的についてうまいものを料理が目的だとするとなれば旅ではないのである。
それは付随したものであり本来の旅の価値とはならないのである。その体験でもうまいものをあそこで食べたなしかならない、旅の体験は抜け落ちしいるのである。
だからかえって時間と金を無駄にしたと後で後悔することにもなる
ただ登山とかは厳しいけど記憶に残る、でもそれは若いうちしかできないともなる
ただ70らいでも登山している人は今はいる、それも体験であり山を知るということはただ遠くから眺めるということもあるが山自体を体験するには登山が必要だとなる
人生は体験でありそれも様々なのである。
でも職業にしても簡単に体験できない、私が無人駅で駅員のまねごとしたのも体験だったそれでただ乗客となるだけではない体験をして駅のことがわかったのである
それを報告もしたのである。だからそこで問題のなのは
体験自体が貴重だった!
そこで金にならなくてもほめられなくても体験することが貴重なことだったのである。
なぜなら職業でも何でも簡単に体験できないからである。
結局自分が体験した職業となると流れ作業とか肉体労働とかしかなかったからである。
先生のまねごともしたがその経験も短く先生になることがどういうものかわからずじまいに終わった、つまりそれも体験できないからそうなったのである。
そして人生はたちまち時間がすぎてしまうのである
老人になるとどうしても自分の経験したことを語り自慢する、それを嫌がる人がいてもそれが人生だったからそうなる。それで認知症になったら親でも千回も同じことを語る
それを聞いている方がうんざりしたがそれがその人の人生だったから熱心に語りつづけたのである。私はこう生きたんだよという切実な訴えだったのである。
一人は従軍看護婦だったからシンガポールの向かいのジョホールバルで四年間地獄のような所で働いたからそれが死ぬまで忘れなかったのである。
だから生きたというとき一番印象に残ったことを語るのである
またこの家を建てたということでいつも自慢していたのもそうである
それも自分が建てたとして自慢したのは当然だったとなる。それはやはり苦労して建てたということがあるからそうなる。それは必ずどこの家でも親が語るのは当然だとなる
それを自慢するのはそれが生きた証ともなっているからである。
ただ病院とに入ると家とは切り離されるからそこで家を誇ることもできなくなるから
存在的にはただの病人になるやっかいものとなってしまうのである。
そして面白い老人とは価値ある老人とは金がある老人とは限らない、いろいろな人生体験をしてその体験が特別なものだったから価値がある、津波とかで九死に一生の経験などは誰でもできるものではないから自慢になる。
でも平々凡々な人生は余り自慢にもならない価値にもならないかもしれない。
波乱万丈を生きた人の話はかえって面白く価値あるとなる。
つまりその語ることでも経験を語るから経験が特別なものでないと訴えないのである。
ただそれぞれの経験があり違っている、それで石の貨幣があるがその価値は石が海に沈んでそれを取りだす苦労がありその苦労を語ることで価値が生まれるという
つまり貨幣そのものではなくいかにその石の貨幣を海からとりだしたという苦労話しに価値があるとなる、それが人間にも言えるのである。
いくら金を残したかではない、どういう経験をしたかでその老人の価値が決まるとなる
はっきりいって規格品のように生きた人は価値がない、カルト教団に生きた人の語ることは価値がないというよりもうその組織集団でも消失すれば個人の価値もなくなる
老人になると価値がまた変わってくる、金があるだけで価値があるとはならなくなる。
だからすべてを金に価値を置くことは失敗するとなる
金がなくてはいいというのではない、そういう極端なことを言ったら議論にもならない
金意外の価値が老人にはありその体験を語ることは別に金にならなくても価値があるとなる
船は荒波にもまれゆれ
それを乗り切り港につく
その時何かかえって達成感がある
そしてその荒波を乗り切ったことを
漁師は何度も語る
そこに価値があったから
静かな海を無事に帰ってきても
そこに価値は生まれない
激しい荒波にもまれた船は
そのこと故に港で安らいでいる
つまり荒波にもまれる経験があってその漁師の話でも価値あるものとなり漁師自体にも価値をあるものとされるのである。
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