2023年01月22日

俳句の英訳の試み (外国語でもその言葉を深く理解しないと詩は訳せない)

俳句の英訳の試み
(外国語でもその言葉を深く理解しないと詩は訳せない)

木一本真すぐに伸びて冬の空

one stretching tree
in the winter sky
the strength of rooted one

冬の日や日々歩みぬ並木道

many lined trees
deep rooted one
stedy walking road
day by day in winter

石黙しようやく開く冬薔薇

the silenced stone
one rose blooms open at length
in my garden in winter

石一つ千歳動かず冬の星

one big stone
stillness
in long time
one winter star

共有す一つの場に生く冬深む

one common life
identified place
deepend winter

独自性,主体性,本性; 帰属意識.
lose one's identity 本性を失くす

社一つ昔を語り冬桜

the one small shrine
recount the past
cherry blossoms
in winter

countとは
数える数えるものは,何かの役に立つなど重要なものという意味合いがあり,そこで「数に入れる」「重要である」などの意が出てくる

これらの英訳は正確ではないです、どうしても意訳になる
言葉の意味を伝えるから英訳すると写生にならない
でもこの詩を訳すことは外国の文化を学んでいることにもなる
直接話さなくても文化交流となる、文化的には豊かになる
外国との交流は何でも文化交流になる
貿易だけではない、文化的に豊かにする、でもまた文化の相違で争いにもなる
でも芸術とかの交流だったら争いににならないのである


俳句は外国人でも作っている、でもそこに文化の壁と言葉の壁があり理解しにくい
どうしても俳句が外国人に理解されているとは思えない
確かに俳句を作っている人はいる、でもそれがどれほど理解しているのか疑問である
なぜなら俳句でも日本の国の風土と深く関係しているから理解しにくい
まず季語を理解することは日本に一年住んでその変化を知らなければならない
日本の四季が独特だからである、文化となると理解するのがむずかしくなる
日本語があり漢字がありとむずかしい、中国人は漢字を使っているのだから理解するのにはいいと奈々、中国から漢字を取り入れたからである、中国の漢詩からでも俳句の季語を取り入れているからである

ただもう詩となると言葉の芸術でもある、言葉に精通しないと理解できない
それで中国の漢字と日本の漢字の意味することが違っている
するとなかなか漢字を発明した中国人でも日本の漢字を理解できなくなっている
同じ漢字でも違った意味になっている、それで明治以降日本人が西欧文明の概念を漢字化して取り入れた、訳した、その訳した言葉を中国人が使っている
ということは漢字にはもともと西欧文明的なものがあり漢字で表現できたともなる
かなだけではとても表現できないものだったからである

漢字はそもそも中国文化の基であった、文明とは文のことだからである
漢字で文にして字にしたことで文明となった、この漢字はアルファベットとは余りにも異質なのである,アルファベットはあくまでも音であれ漢字は絵なのである
その相違が大きいのである、なぜなら言葉は最初は音から生まれている
音で通じ合っている、だから動物の鳴き声でもそれは音の言葉なのである
それで最近鳥が鳴き声で話し合っていることがわかってきたのである
何か危険を知らせるとかいろいろなあいづとして鳴き声がある、鶯でも人が近づくと警戒音を出す、それは鳥の言葉なのである

人間は言葉でも絵のようにするとそれは万人に通じやすい、だからエジプトの神聖文字も絵である、でも文になると高度なものでそれが文明を作ったとなる
言葉は話し言葉が基であるがそれは意外と文章とか字とかより通じていた
それは鳥でも動物でも鳴き声がもともと言葉であるのとにている
でも文字となると文章で表現することは相当に高度なものであり文明を作ったとなる
中国人でも言葉は多様であり一つではない、だから音が同じではないので音では通じにくいが漢字だと共通となり広い国でも多様な民族がいても通じ合うものとなり一つの国意識を持つようにもなった、今でも中国ではテレビで声でアナウンサーが話すにしても漢字のテロップも出している、つまり中国では音だけでは通じていないのである
だから中国全土に通じるのは漢字になっている、ということは漢字があって多様な民族をまとめること意思疎通ができたともなる
中国を旅行しても漢字を書いて通うじあうことができる、筆談できる
この辺に働ききていたミャンマー人はしゃべることができる、でも漢字を書くことはむずかしいと言っていた、漢字はそれだけ高度なのものなのである

これだけグロ−バル化するとどうして世界の人達と意志疎通するのかとなる、英語は世界共通語のようになっている、でも英語だけではない、言葉は多様である
その言葉を理解することが根本的にむずかしい、結局言葉をものにするということは話すとでもそうだが読み書きできてこそものにしたとなる
では英語で文章を書けるかとなるとむずかしい、読むことはできなる、文章にするのはむずかしい、ただ機械翻訳である程度は文章化できる
でも詩となると相当に難易度が高い、そもそも日本でも詩を理解することはむずかしい
俳句でも詩だからむずかしいのである
ただ異文化交流すると文化交流になりそこで新たなものを発見する
ただ発音が違うというのではない、その言葉の持っている意味も表現も違ってくる
ただつくづく人間の発音は生来のものでありネティブなものであり変えられない
中国人の女性がコールセンターで働き説明していたが日本人ではないことはどうしてもわかる、中国人だとわかる、それは発音が違っているからである
それは国の訛りと同じなのである、その訛りを消すことはできないのである

俳句から世界との文化交流も起きる、日本語で表現するのと英語であれ他の言葉表現する時感覚的に違ったものになる、それは言葉の持っている意味が違っているからである
ただそこに共通なものがある、だからいくら国が違っても文化が違っていても理解できるものはある
でも言葉一つとってもその言葉の意味を深く知ることはむずかしい、その言葉でも背景に風土があり長い歴史があり作られてきたものがある
その背景を知ることがむずかしいのである、そもそも英語が成立した背景がある
英語はドイツ語が基礎として生まれている、だから英語とドイツ語は共通することが多いだからドイツ人は英語は方言のようなものになっているとなる
ヨ−ロッパ人は英語を話しやすい、それはロシアとかスラブ系でもそうである
ウクライナ人が結構英語を話していることでもわかる
日本人の問題は日本語のルーツもわからないし孤立語になっていることである
日本語と共通なものが世界にないのである、いろいろ探ってもわからないのである
でもヨ−ロッパなら共通な面があり理解しやすい、方言のようにもなってるからだ

いづれにしろ詩は言葉の芸術である、すると言葉を深く理解しないと作れない
その言葉の意味するものがヨ−ロッパの歴史であれ風土から生まれている
だから言葉だけからは理解できない、文化はcultivate-cultureからきているからだ
つまりその土地を耕す、深く耕すことから生まれている、言葉それぞれの土地から離れてありえないとなる、ただ日本語でも俳句でも英訳すると簡潔になる
何か無駄のない感覚になる、、もともと俳句は無駄を極力省いたものである
だから写生になった、悲しいとかうれしいとなるべく感情的な言葉を入れないのである
それだけ短いのだからそこにある実写したそのものも俳句にする写生俳句になったのである

石があり葉牡丹があり木の根っこがある、ただそこにあるものを実写してそれについてあまり語らない、説明しない、物そのものを通じて説明するとなる
それが写生俳句の真髄なのである、それは短いからそうなったのである













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