肥料で苦労してきた農民−農業を知らないと歴史をわからない
(田舎でも農業を知らない人が増えた)
歴史道【別冊SPECIAL】そうだったのか!江戸時代の暮らし (週刊朝日ムック) ムック – 2022/12/6
農業で一番大事なものは肥料である、肥料で苦労するのが農業である、そもそも農業自体の起りが森の木を焼き払って灰にしてその灰を肥料にして畑を作り野菜を作ったことに由来している、だから肥料がないと農業は成り立たない、其れでイワシが肥料になったのもそのためである、イワシは人が食べるものではなく肥料になった
そのために北海道で大量にとれたイワシが全国に肥料として売れた、それは松前から船で運ばれたのである、相馬藩でも松前まで船で行きイワシを積んできて買って肥料にしていたのである、米を売ってイワシの肥料を買っていたのである
それから肥料は落葉とかでも肥料になる、草も肥料になる
それで右田の農家の人はそれを馬車で運んでいた、橲原(じさばら)とかに山を所有していたのである、今は津波でその人が住んでいた家がなくなった
だから街内の団地のような所に住んでいる、また橲原とかに土地を持っていたからそこに家を建てた人もいるようである
小さな畑で野菜作りした人は角田まで行って鶏糞を買って肥料にしていた
その鶏糞を私の庭にも利用した、花でもやはり肥料がないと育たないのである
日本の地名で焼畑地名が多い、飯館村の佐須村の佐須は明確に焼畑地名である
そこに山津見神社がある、これは安曇族が入ってきて証拠である、安曇族は海人族であったが焼畑の技術ももっていてそこに土着したのである
肥料なくして農業はなし・・・・・・・
ロシアとウクライナで戦争があり肥料を輸入していたが入らなくなったことが世界的に影響した、日本でも影響して農産物が高くなるということがあった
肥料というとき今は化学肥料になる、それが入らないと農業が成立しないのである
農業とは肥料を作る苦労だったともなる
近くの街中の農家の婦人は人糞を取りに回っていた、それを子供の時見ている
汚いものだがそれを汚いとは見れないものだった、なぜならそれを肥料として食料としていたからである
江戸でも回りが農民であり肥料をとるために人糞を取りにきていたのである
隅田川の由来
「すみだ川」の名が登場したのは、西暦835年のこと。当時の政府の公文書に「住田河」と記されています。この「住田」が、どのように読まれていたのかは定かではありませんが、川の三角州に田を作ったという意味で「すだ」と呼ばれていたと考えられています。その後、平安時代の伊勢物語では、「すみだ川」という歌が詠まれ、すみだ川の名が全国に広まっていきました
「隅田区」の広報
地名とはこのように人間の生活に密着して名付けられる、詩的に美的にとか名付けられないのである、人間が生活するために田が必要であり米が必要だからこそその名がついたとなる
「すみだ川」の名が登場したのは、西暦835年のこと。当時の政府の公文書に「住田河」と記されています。この「住田」が、どのように読まれていたのかは定かではありませんが、川の三角州に田を作ったという意味で「すだ」と呼ばれていたと考えられています。その後、平安時代の伊勢物語では、「すみだ川」という歌が詠まれ、すみだ川の名が全国に広まっていきました
「隅田区」の広報
地名とはこのように人間の生活に密着して名付けられる、詩的に美的にとか名付けられないのである、人間が生活するために田が必要であり米が必要だからこそその名がついたとなる
ある年に土地の半分を植え、残りの半分を休ませ地力を蓄える二圃式農業は古代世界では非常に一般的でした。ヨーロッパではこのような休閑による地力の回復の他にも、家畜の糞を藁と混ぜて発酵させてつくる厩肥(きゅうひ)が広く用いられました。 また、石灰肥料や緑肥(刈った植物を畑に混ぜ込む施肥)も行われました。
江戸時代の重要作物は関西の木綿と関東の桑(養蚕)で、品質と生産量を安定させるために多くの肥料を必要としました。当時重要だった肥料は菜種油粕と魚粕。菜種油粕は行燈の油として利用した菜種油の粕。魚粕はイワシなど採れすぎた魚の再利用法でした。
大阪では、家主は借家人の固形物の権利を持っていましたが、価値の低いとされる小便の権利は借家人が持っており、それぞれ仲買人に売ることができました。18世紀初頭では、一年の10世帯分の糞尿は、半両以上で取引されていました。
大阪では、家主は借家人の固形物の権利を持っていましたが、価値の低いとされる小便の権利は借家人が持っており、それぞれ仲買人に売ることができました。18世紀初頭では、一年の10世帯分の糞尿は、半両以上で取引されていました。
値段が高騰すると仲買人同士の喧嘩や論争も頻発し、貧農が糞尿を買えず盗みに走り罰せられるといった事件も頻発しました。
8世紀のイギリス、刃物の町シェフィールド。
この町では刃物の柄に動物の骨を利用しており、加工の時に削った骨くずが大量に生じて工場主は処理に困っていました。そんな時に誰かが骨くずを失敬して自分の畑に撒いてみたら、なんと作物がよく成った。それが噂で広がり皆が骨くずを欲しがるようになりました。こうして骨粉が誕生しました。骨粉はリン酸を多く含み、植物の生育を促す働きがあります。
肥料の歴史"農業の始まりから化学肥料まで"
https://reki.hatenablog.com/entry/211105-Fertilizer-History
地力が失われるのでこうなった、土の栄養分が失われるから肥料を貯えさせてまた使う方法である、これも農業では肥料が大事なのように土が基本であり土を肥やさない限りできないからである
こうして農業から文明が生まれたのである、それまでは狩猟採集であり定着できないが
肥料を作る、土地を肥やすことをして定着できて農業が発展してそれを基礎にして文明が生まれたのである
骨紛とかでもそうである、何か肥料となるものを農業では常に探していたのである
今は化学肥料となり鉱物から取り出されているのである
いづれにしろ歴史とか社会を知るにはやはり農業が基本になる、農業は欠かせない食料を生産するのだからそうなる、食糧危機になるとか最近騒いでいるのでもわかる
外国から入らなくなりそうなることで不安になる
中国ではそうして飢饉になれば政権が変わる、革命になる、だから食料を供給できなくなったら人民に襲われるという恐怖が歴史的にある
14億の人間を食わせることが第一になりそれが政治にもなる
田舎だと回りが田畑だから農民が多いし農業で生活しているように見える、でも実際は今は農民は一割にもみたない、みんな会社員なのである、だから意外と農業のことが田舎でもわからなくなっている
農業でも実際にたずさわってみないと実感としてわかりにくいのである
でも肝心なこと農業がわからないとういことがある、すると農業が軽視されて跡継ぎもいなくなったとなる
浪江の電気工は原発で働いていた、だから浪江が廃墟のようになっても周りの田畑が草ぼうぼうになっても関心がなかった
何か補償金もらってみんな喜んでいると言っていた、これは明らかに農業で生活していないし実際は全体でみても少数者になったからそうなったのである、農民が八割の時代はそういうことはありえないからである
それは生死にかかわるからである、天皇が皇居で田植えしたり養蚕をしたりしているのはやはり農業中心の社会がありそれが継続して行事となっているのである
そして正月の行事でも実際は農民の行事であり正月は豊作を祈る時である、でも農民が全体の一割とかなるとそうした正月行事も
なくなってゆく、別に餅は正月に食べていたがいつでも食べられるから晴れの日はなくなったのである
ただ正月とは年が変わるというだけで何か晴れの日としての楽しみでもない、紅白歌合戦が国民みんなで見るというのもなくなりつつある、年代的に音楽でも何でも多様化しているから国民的行事とういのは消失しているのである
でも歴史をふりかえるときやはり農業が基本にあるからこれを知らないと歴史もわからないのである
御民我れ 生ける験あり 天地の 栄ゆる時に あへらく思へば
海犬養岡麻呂
海犬養岡麻呂
基本的に人間が栄えるというとき自然と切り離しはありえない、それが原発事故でわかった
生活の基本となるもの水でも土でも森でもさらに空気まで放射性物質に汚染されたら生きることもできない
住むこともできなくなったからである、科学技術文明の危険がここにあった
最近持続可能社会がSDGsが言われるのはそのためである

原町区の北泉の残された碑−ここは延命地蔵を祭っている
延命地蔵とはやはり長生きを望んだからである
正月と記されている、正月がやはり特別な日だから記されたとなる
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