2022年12月26日

人間の評価は死後に明確になる (自転車屋の死で考えたことー金で計られない価値)


人間の評価は死後に明確になる

(自転車屋の死で考えたことー金で計られない価値)


人間は生きている時はなかなかその人の価値がわからない、生きている時の価値はたいがい金で計られる、どのくらい稼いでいるかで人を見る、金を稼げない者は価値がないとなる、でも不思議なのは一旦死ぬとこの人はいくら金を稼いだかいくら金を残したのか
一千万残した一億残した十億残したとかで価値が計られるのか?
それは遺産をもらう人によって価値があるが他の人にとってはそうはならない
遺産をもらうわけではないからである

すると何が価値になるのか?それを近くの自転車屋の死で考えた
死んでその人の価値が明らかになった、なぜならこの町では一軒しか自転車屋がなかったからである、他に頼みようがないからである
何か隣の市で聞いたら断られた、自転車を買って日ごろから修理とか頼んだりしてないと受け付けないのである、商売だからそうなる

自転車屋が近くにないことはヤマハの販売店になっていたからヤマハの電動自転車のいいものを買っていた、そのチェーンがはずれた時、直しようがなかった、それはそれを直す特殊な道具が必要になったからである、それをヤマハの本店から仕入れるほかなかったのである、前はエンジンの不具合で全部取り代えたりもした
これができるのは本店と直接交渉できるからである
このように自転車屋か近くにないと困るのである、パンクは一番困る
それだけではないタイヤで規格がありヤマハで買った場合、ヤマハからタイヤでも仕入れることがある、だから自転車屋の場合近くにないと困るのである

その自転車屋の価値は一軒しか町になかったことで価値が高くなった
何か無医村とも似ていた、医者がいない村では医者の価値は本当に高いものとなる
病気は深刻だからである、でもこの辺だとまだなんとか近くに市があり医者はいる
そこに通えばいいともなる、今医者でも地方で問題になっているのは医者自体が高齢化しているのである、近くでは90歳まで現役だった医者がいた
現実にすでに60以上とかの医者が多いだろう、そして後継者がいなくなっているのである、また医者でも自転車屋でも若い人がいいというとき技術的に進んでいても老人はついていけないし遅れるからである、それも問題なのである

前は一万五千人くらい人口があり自転車屋四件くらいあった、その頃子供が多いしそれで成り立っていた、でも一軒となりその一軒も消えたのである
これはここだけの問題ではない、いたるところで起きて来る問題である
後継者がいないということである、農業でもそうである、ただこの町では経営としては成り立っていたろう
人間の価値とか決めるのはいろいろな要素がある、ここでは町に一軒しか自転車屋なくなったことで価値があがっていたのである
そして死んだ結果その価値がさらに明確になった、みんな自転車を使っている人は困るからである、それは鉄道とかでもそうである、無人駅化して困るとかある
それは日本がこれから起きて来る現象の一つなのである、縮小化してゆく日本で起きて来る現象なのである

だから人間の価値は必ずしも金では計れない、その人が必要なものであるとき必須ものとしてあるとき価値がある、その人がいなければみんなが困るというとき価値がある
それがここで起きたのである、あの人がいなくなって困ったとなったからである
その人は病気でも懸命に仕事していた、そこにも価値があった、それは一軒しかないからそうなったのである、他に自転車屋があればそうはならなかったからである
こうして人間の価値とは必ずしも金で計れない、でもすべては金で計られる
自転車屋でも経営がここでは成り立たないとなれば生きている内でもやめることがあるからだ、民間だとそうなる、でも只見線とかは莫大な復旧費がかかったけど県でも国でも出費して復興して再開したのである

ともかく一軒だけあった自転車屋の価値は死んで明確になった
ではその死を弔うのに供養するのに金をやればいいのか多くの金を死者に与えればいいのか?

それも実際は死んだ必要がないのである、なぜなら死者は何を望むのか?

金が欲しいのか?

死んだ死者が望むものは金でもなく供物でもなくその人自身の評価である
何を生きたのか、何を与えたのか、何の役割があったのかとかある
それは家族内でもある、私の場合は姉と母には自由に生かしてくれたので今でも感謝しして供養している、このように感謝されれば価値がある
でも別に死んだら金で報えることはできない、死者が望むものは何なのか
それは死者がしていたことを認めて評価してまたその遺志を継ぐこととかなる
それは金ではないのである、一旦死ぬと人間は金で評価されないのである
死者に報えることはその人の価値を認め評価して感謝することだともなる
それで自転車屋に献げる詩を書いたのである


お悔やみに行く

今日お悔やみに行ってきた、祭壇は大きなものではなかった、だから金銭的には苦しかったのかもしれない、それで病気の治療代もかかっていたこともある
お悔やみの金は実際は残された人には必要なのである
残された妻がこれからどうなるのかはわからない、娘の孫が来て騒いでいた
その孫は東京にいるから跡は継がない、他にも東京とかに娘が嫁いでいる同世代の親がいる、後継ぎがいなくなり空家家するのである、駅前の理髪店も廃業して家が壊されていた駅前の活性化とか言っていたがそう言っていた本人が死んでしまったのである



posted by 天華 at 14:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層
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