2022年12月25日

原発再稼働の問題 (まず東京に原発を作るべきーそこが議論もされない)


原発再稼働の問題

(まず東京に原発を作るべきーそこが議論もされない)

電気料金があがるとかで原発は必要だと主張する、政府主導でまた原発を稼働させる
技術的にも改良したとから安全だという、そういわれても原発の被害にあった所では
ああそうですかとはならない、これだけの被害があったらもうこりごりだとなる
原発の問題を追及して来たけどそれは技術的な問題だけではなかったのである
もう政府が技術者とか御用学者とか官僚とか検察とか自衛隊とかが一体となって作られたものなのである
そしてその人たちが「安全神話」を作ったのである

実際はいろいろな不備があっても権力でごまかすことができた、その問題をないがしろにして官僚でも責任をとっていないのである、天下りした官僚は東電からもらった金を返却するべきだし財産没収しろというのもわかる
それだけの責任があったからである、でも実際はそうした責任をとっていないのである
マスコミも一体となり「安全神話」は作られたがマスコミも責任があっても何も責任はとらない、そこで利益を得るというだけだったのである

本当に一番欠けている視点は原発を東京に作れ!

そんなに安全なら電気でもたりないならその電気を一番使っているのは東京なのだから
東京に作るのが筋なのである、そして意外と東京は地形的に津波にも安全なのである
入江が奥まで入り込んでいるから海岸にじかに接して建ててある福島とかより安全なのである

でも絶対に東京には作れない!

東京では一千万人以上の人間が住んでいて政治家でもあらゆる権力が集中している
一千万人の都民が賛成などしないのである

だから東京には絶対に作れない!

だから福島に作ったのである

このことが問題だったのである

東京に作るなら賛成する、でもそれは絶対にできない、、それがおかしいのである
原発は必要だということはわかる、ならば東京に作れ、それなら賛成するとなる
それができないから原発は危険でも東京なら害にならないとして地方に作る
地方は財政的に苦しいから援助するから作ってやるとなる
でも事故になったら東京は安全であり地元は故郷に住めなくなったとなる
このことが最も矛盾しているし議論もしない、東京に作れということは議論にすらならない、それはタブーなのである
だから事故前に東京に原発を作れと言っていた評論家は正しかったとなる
でもそれは注目もされなかったのである、東京に作れるとういことこそ安全を証明するものだからである、東京都民一千万人を危険にさらすからである
でも絶対に東京には作れないのである、このことが原発の議論で欠けていたのである
東京の自分達の安全を計るが地方は犠牲になれとかでは納得できないのである

そして安全管理でも津浪が来たから事故になったのではない、技術的問題でもない
コストの問題でもあった、その時の社長はコストカッターとして社長に成りあがった人だとしている
本当は高い場所に建てる予定だった、でもわざわざ高く土盛りしたのを削って低くして
地下に電源を置いたのである、それで津波の被害にあった
地下に電源を置いたのはアメリカでは竜巻があり地下に置いていたからまねたのである
またアメリカ主導で作られたこともある、まだその時日本では原発のことを技術的に理解していないかったからだ、それで古いマーク1の原子炉をお古をアメリカから売りつけられたのである

それで湯川秀樹博士は日本ではまだ原発を作れる技術がないからまだ時期早々だと言っていた、でも無理やりに作ったのである、原発の問題は技術的な問題だけではない、モラルの欠如もあった、奢りもあった、10数メートルの津浪が来ると東電が頼んだ学者たちが警告していたのである、それも無視したのである
そこには様々な問題が指摘されていても無視したのである
それで東北電力の場合は副社長が10メートルの高さから津浪が来るとして5メートルを高く所に作った、それで破壊を津ねがれた、三陸では度々津波が来ているので危機感があったからである、女川原発ではそうしてぎりぎりで助かったのである

原発は地元であれ第一その内部も知ることができないし立ち入り禁止である
アンタッチャブルな場所になっていた、そこに危険があった、素人が立ち入りもできない場所になっていた、でも安全管理はずさんだった、配管などが老朽化して危険だとも内部の技術者が指摘していた、でもそれを上の人に言うこともできなかった
なぜなら東電の人には下請けの人は何も言えない、仕事をもらえなくなるからである
でも原発のことがすべてわからないということでもなかった
なぜなら

巻町では1995年2月5日には、計画の是非を問う自主管理住民投票[6]が行われた。これは条例に基づく町役場による実施でなく、町民有志が設立した「巻原発・住民投票を実行する会」が取りまとめたもので、原発賛成474票に対して反対9854票であった[1]。
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このような限界集落があるような所で良く反対できたと思う
素人でも危険と感じてそうできたのである、だから別に素人だからわからないから何もできないということではなかったのである

要するにアンタッチャブルになり立ち入り禁止になり住民はそこに何ら関係すらできなかったのである、でも一番被害があるのが住民なのだから住民に例えわからないにしろ説明すべきだった
でも事故を全く想定していない「安全神話」を作り事故は起きないとして受け付けなかったのである、その権力が政府から官僚から議員から検察からマスコミが一体として「安全神話」は作られたのである、そしてそれが津波で砕かれたのである
地元の人達はただ金をもらえばいいとしかなかったのも問題だった
生業を返せとか裁判して勝利したとしてももともと生業が何なのか、金にならないとしてやめたいとなっていたのである、でもやはり責任は政府と東電とか官僚にあった
「安全神話」が作られて事故が起らないとなれば事故に備えることもないとなる
実際は安全だと題目でも念仏でも安全、安全と唱えていれば安全だともなっていたのである、科学者集団でもそうなっていたのである、それは責任逃れだともなる
科学の時代にそんなことが通用するのかとなる

とにかく原発再稼働昨今の事情で容認されつつある、これも危険である

まず東京に原発を作れ!それなら容認する

でもこれは議論にもならないのである、原発を何基か東京に作れ、そうならば認めるとなる、しかしそれは絶対にできないのである
そこが原発が認められないことにもなる、安全ならできるからである

そして一度失った信用は簡単に取り戻せない!

人間個人でもそうであり会社でも国でもそうである、事故の被害にあった所ではもう信用できないのである、政府も官僚も検察でもマスコミでも信用できないのである
このことが重大なことなのである、安全だとか技術改良が進んでいるとかなんとか政府が言っても信用できないである、そもそも政府の決めることかみんな信用できるのかとなるとならない、それを原発では嫌というほど知ったからである

つまりに人間のやることに絶対はありえない、事故は絶対にないとは言えない

でも絶対に事故はないとか安全神話を作ったことが大きな罪だったのである

絶対と言えるのは神しかいないからである、人間には必ず不完全であり不備がある、それを認識するべきだったのである
それを隠してただ安全だけを言っていたのである
絶対安全だからとして安全神話を作り事故にも備えなかった、そして浪江町では一番危険な場所に津島の方に避難して被害を大きくしたのである、でも東電の社員が海側が安全だとして山の方に向かって逃げていたが引き返したのである
東電の社員は放射線がどういうものか知っていたらできた、てもそうして事故が起きたのことの備えをしなかったし知らせることもなかったのである
それは「安全神話」作っていたからである、事故は絶対に起きないものとしていたからである
それが最大の問題だったのである

posted by 天華 at 09:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連
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