常なる道の花ー隣の庭の紅葉(晩菊、紅葉、冬たんぽぽ、冬薊)
ここに大きな平な石があった、庭としては広い

(隣の庭)
庭広く紅葉に松や大き石
朝日さし隣の庭に紅葉映ゆ
街中の路地裏の道冬たんぽぽ
三色の晩菊に日さしあたたか
墓地近く晩菊三色映えにけり
常なりき今日もこの道冬薊
隣の庭の紅葉がきれいである、空家になりその庭は広いし木が五六本ありそれは映える
庭が自然になっているというとき日本では家庭というように庭が自然であり一体となる
庭の石でも木でも花でも人間化するのである
何か広い庭がありもったいない、誰か住むようになるのかわからない
でも他人の家と庭だから勝手にはできない、その家とはいざこざもあったからだ
でも都会でもそこに大きな庭があり木などがあればそこには自然があるとなるから貴重である、都会は自然が少ないから貴重なのである
路地を歩いたら冬たんぽぽが咲いていた、何か冬でもまだあたたい、浜通りは冬でもあたたかい方である、会津だったら雪に埋もれる一日中どんよりとして雪になる
この天候の相違も大きいのである
晩菊に陽射しがあたたかい、三色の晩菊が心地よく咲いているとなる
この晩菊は老人なのである、それは墓地の近くに咲いていた
これは別にしてここに移した、今日は陽射しがあたたかだった
今年はやはり暑かった、太陽が関係もしている
だから秋が短く冬にもなったがまだ冬という感じはしないのである
いつも行く道でも季節の変化がある、晩菊というという時老人なのである
それぞさに色が違うということはそれぞれの人生を生きてきたからそうなる
それで老人は語ることに意義がある、浜通りは冬でもあたたかいときがあるから冬たんぽぽが路地裏の道にも咲いていた、いかにもそこに似合っていた
花でもやはり人間とともに活きているからである
ただ路地裏だと飲み屋とかあるから何か花にはふさわしくないともなる
だからだから都会のネオン街などにはふさわしくない
どうしてもそういう場所に花が映えないとなる
花が映える場所というのはネオン街とかにはない、花を飾っても酒の匂いがしてまた女性でもそこでは本当の美はない、虚飾の世界なのである
やはり花は野に映えるとなる、でもフラワーアレンジメントとかわび、さびの世界の茶室には野の花も映える、また別に外国の花でも花は映える
その場が問題なのである
私は親の遺影にいつも花を献げている、花は死者にささげるのにはふさわしいとなる
死者はもう汚されることはないからである、また自らも他者を汚すことがないからである
ともかく庭でいいのは身近に自然を感じることである、日常的に感じることである
だから隣の庭も自然と感じる、都会では大きな庭があればそこに自然を感じるとなる
それはその家だけのものではなく全体に影響するのである
いづれにしろまだこうして空家になっても回りに人が住んでいればその自然は活きている不思議がある、それはまだ回りに人が住んでいるからである
でも原発避難区域になったところでは回りにも人が住んでいないのである
だからその空家の庭でも誰もみないとなる、特に農家などは街から離れて孤立しているから余計に見ないのである、そこは死んだ家にもなってしまうのである
空家をどう活かすかは全国の問題である、もったいないからである