冬に入る故郷(秋薔薇、時雨、短日、冬日没る、冬薊、冬籠り)

庭に石長くもあれや秋薔薇
頬濡らす一滴の時雨老い深む
短日や老人生きる日数かな
故郷の小径を行くや冬に入る
故郷の病院に入り冬日没る
この道に今年も咲きぬ冬薊
老一人木戸木に残り冬籠る
我が庭に一輪秋の薔薇咲きてしみじみと今日も一人見ゆかな
姉と母遺影に花を我が献げ訪ぬ人もなし冬に入るかな
知る人の病院に入り逢わざりき治れと祈り冬に入るかな
野は枯れて陽の没り早し夕雲に月の光りて老いし我かな
空家なる庭の紅葉の赤く映ゆ人住まずば誰に映ゆらむ
文化の日すぎて今日は明らかに冬だった、冬日が山脈に没するのが早かった
短日にもなった、一昨日なのか確かに時雨もあった、時雨というと山頭火である
後姿も時雨れてゆくか・・・となる
老人になると短日が似合っている、時間がすぐ過ぎてゆくからである、老人は冬に合っている、ただ今老人といっても70以上になる、60代は初老であっても老人とも言えなくなったのである、高齢化で老人という感覚が相当に変わったのである
長生きでないとき老人は何か貴重に見えたかもしれない、それは長生きする老人が少なかったから希少価値があった、それで姥捨て山伝説とかあるがこれでも本当のところはわからない、子捨てとか間引きとかは食い扶持を減らすために現実にあった
でも老人は長生きしないから江戸時代辺りだとあまり迷惑をかけずに早めに死んでいたともなる
知っている人は近くの病院に入院した、逢ってもいない、病院はウィルスが怖いのであるうようよしている場合がある、それで私自身が風ひいて40度の熱が出たのである
病院というときやはり地元の病院だと何か安らぐとなるかもしれない、近いと看病にも行きやすいとなる
ただ病院でも人による、医者でも看護師でも人がよければ場所は関係ないともなる
そもそも昔だったら村で病気になったりしたら薬師堂で祈るくらいしか方法がない
でもスリランカの村のように村人全員で祈っていたりしたかもしれない
高度な治療などできないから祈るほかなかったからである
でもそういうことでやはり精神的影響はある、そういう思いが伝わるからである
私が入院したときは相馬総合病院では看護師に虐待のようなことをされたからいいものではなかった
ただ今は看護師でも老人とか病人を嫌っている、それは数が多いからである
病院でも老人病院になっているからである、だから病院でも番号で呼ばれるとか無機質な空間なのである、そしてかえって病気を悪化した人がいたのであ
確かなことは老人の病気の対処は違ったものになる、老人医療を言う医者がいるがそうなく
私が毎日語りかけているのは姉と母の遺影である、私は姉と母のことを一番今でも大事にしている、それだけ良くされたのでそうなったのである
ただ本当に死者を愛すということはなかなか継続しにくい、全く返事がないからである
だから日々に去る者は疎しとなりやすいのである
ともかく今日は本当に冬になった、秋は終わった、ただ秋は短すぎた
紅葉はこれからであり晩秋が冬になった
奇妙なのは隣の空家に紅葉が赤く映える、でも見る人はいない
私がその紅葉を見て私に映えていることの不思議である
時々に庭に入っているからである、つまり空家の庭になったのだが半分自分の庭のようになっているのである
その家とは自分の家でいさかいがあった、でもその人達はみんな死んだのである
隣同士では何かもめることがある、でも今はみんなそうした人達も死んだのである
つくづく人間はこうして何か争うものであり醜いずるい人がいる
でもいづれはみんないなくなるのである、でも何か後味が悪いものを残すとなる
ただその家にもともと住んだ人はずっと前から住んでいない、別な所に住んでいたから
それも変わってしまったのである
そこに二十年以上住んでいた人は借りて住んでいたのである
飯館村の木戸木(ことぎ)に一人80以上の人が住んでいる、そのことを書いた
あそこに一人住んで冬ごもりとなるのかと思う、あそこは大倉でもあり意外と近いと思った、草野の方に行くと遠い感覚になる、もともと大倉は近かったのである
ただ坂があるので苦しいのである、車だったら近いとなる
自転車だとどうしても近くでも遠くなるのである
ただ一つの空間を共有する地域だと思った、川俣になると飯館村から十キロとなるから遠い、別な世界にもなる、飯館村まではもともと相馬藩内だから地理的にもそういう範囲にあった、でも葛尾村となると三春に近く遠く感じるのである