信教の自由とは何なのか?
(統一教会は政治団体でもある,カルト団体がが信教の自由を盾にするのは間違い)
信教の自由を盾にカルト教団でもタブー化される、そして権力化して暴走する
それは原発でもそうだったのである、これも巨大な権力化して誰も批判もできなくなっていた
安全神話はこの政府と一体化した巨大権力でタブー化したのである
だから何かタブー化するのは危険だともなる
アンタッチャブルになりそれがナチスのように暴走するからである
常に宗教団体が批判されると信教の自由を言う、これを盾にして正当性を主張する
法律も常に都合のいいように利用されるのである
その解釈にもいろいろあり理屈はいくらでも言えるからである
そして最終的には法律でも権力がある者が決める、その権力が何かとなれば民主主義では選挙で政権をとったものである
すると選挙で勝てば数が多ければ法律も改正できるし何でも通るとなる
だから赤信号みんなで渡れば怖くないとなる
おそらく何が問題なのか?それは宗教法人とか宗教団体の問題である
信教の自由とは個々人にはある、個々人で何を信じようがいいともなる
だから無神論者もいいとなる、でも無神論者も一つの宗教だとしても無神論者の団体はないのである、ただ個々人的には別に神も仏もはいないというのは信教の自由で許されているのである
ただイスラム教国だと許されない、死刑にまでなるし殺戮される
イスラム国では信教の自由はないとなる
宗教法人とか宗教団体に信教の自由があるかが問題なのである
神は心を見ているという時、そもそもそれは個々人の心であり宗教団体のことではない
第一心を見るというとき団体化したら見ることもできないからである
団体化すること自体すでに政治化していることにもなる、また権力化していることになるなぜなら誰も一人だと社会では相手にしない、個人というだけで図書館に本を置くことを断られたりそもそも個人など社会では認めない、個人自体が犯罪者扱いなのである
でも団体化すれば犯罪的なことでも許されるのである
なぜ団体化すると社会で認めるのか?
それは団体化することは権力を持つからである、例えば一人で店で買うより十人が買うとなるとその十人の団体を相手にした方がいいとなるからだ
だからすべてこの世は団体でしか活動できない、NPOにしてもボランティアも団体でしかできないのである、つまり団体化組織化しないとこの世は動かないとういことである
つまり権力を持つためには団体化組織化することであるりそれは政治化することなのである
統一教会でも政治団体であり他のカルト教団も政治団体なのである
一番あからさまなのは創価である、宗教と政治が完全に一体化しているのである
教義自体がそうなっているから疑問も感じないとなる
だから奇妙なのはカルト教団は信教の自由を言うけど政教分離という法律があっても法律でも権力があれば無視できる、創価は完全に政教分離に違反していてもすでに自民党と一体化した政権なのだから無視である
だから自民党は創価公明党を批判しないのである、統一教会これほど問題にしているのに一切創価公明党にはふれないことでもわかる
でも政治的に質問権などを許可すれば創価も問われることになる
信教の自由は個々人にあるーでも宗教団体にあるのか?
そこが問題なのだけど信教の自由となれば何でも通るとなる、だから常に法律でも悪しく利用されるのである、理屈などいくらでも言えるからである
結局信教の自由というとき戦前はなかった、天皇崇拝となりその他は弾圧された
創価の初代会長の牧口恒三郎は逮捕されて獄死した
他の宗教団体も弾圧されたのである、そこで戦後は信教の自由が何かといわれるようになった、それはあくまでも宗教団体の信教の自由なのである
そして人間は団体化組織化することは政治化することなのである
民主主義ではすべて数で票で決まる時それで法律も作られ悪法でも作られる
そしてナチスは選挙で選ばれたことでもわかる、ナチスでも数が多ければ権力を持つことができるのである
こうして歴史的経緯があり戦後は極端に宗教団体とかでも批判されなくなった、でも逆にそこにも問題が生まれたのである
信仰なら信教の自由があり組織化団体化して権力を得ることも批判できないとなる、それは戦前の反省から極端化したのである
信教の自由というときこれも権力団体があり都合いいように使われるのである
力が正当化するのであり法律が社会を規制する訳ではないのである
だから創価になると権力を得ることしか頭にない、毎日選挙運動なのである
それは権力と御利益と直接結びつくからである
そういうものは大衆も即座に理解する、利にはさといからである
望むことは権力を得ることでありその他はどうでもいいということである
ただそこに宗教がかかわるからややこしくなるのである
宗教とはそもそも何かがが定義されないからである
現実は権力を得てこの世の王となることである、心の問題は関係ないのである
そんなことしたら人が集まらないからである
要するに人が集めるには心の問題より現実の利益であり権力を得ることが最優先課題なのである、そういうことは誰でも理解するからあれだけ人が集まるのである
だからそれが宗教なのか?信教の自由を言うがそもそもそれが宗教のなのか?
宗教は良心の問題だというときも宗教団体では関係ないのである、そんなことを問題にしているのではなく政治的利権とか御利益しか追求していないからである、それは一般社会だったら別に批判されないのである
でも宗教がかかわって信教の自由とかで批判するなとなるのがおかしいのである
それ自体が疑問なのである、信教の自由を盾にしているがそれは方便であり実質は権力を得ることだとしたら宗教法人でも許可すべきではないのである
宗教はあくまでも方便であり目的は権力を得ることだとなるからである
宗教と政治が一体化しているから複雑になっているのである
政治団体は政治的党派は許可される、でも宗教団体は実質は政治団体でも許可されるのかという問題がある
ともかく宗教が政治にかかわり権力を持つとおかしなことになる、別に預言者のように政治で権力を持つものを批判していい、それが日蓮でも預言者でもそうした
でもそれが政治団体化すると権力を持つことを目的化することは政教分離に違反するのである、でも自民党そのものが創価公明党と一体化しているのだから政教分離違反の政党であり法律違反だともなる
創価公明党に質問権を行使しなければならないとなる、それは他の宗教団体でもそうなるのである、でも自民党でも票が得たいからそれがでなきいとなる
つまり世の中は権力によって左右される、結局明治の前は戦国時代でも戦争で権力を持った者が支配するとなっていた、その後民主主義社会になっても権力が武力ではなくなったがやはり権力を追及するのが人間である、宗教でも権力を得る手段になる
目的は権力を得ることであり御利益を得ることでありそれしかないのである
あくまでも信教の自由とかいうのは方便である、権力をもちさえすればすべては通るとなる
それがナチスになったのである、現代では数が権力だからである
この世とはこの権力をどうするか、操作するか規制するかが常に問題になるのである
そのために三権分立とかもできたのである、権力は集団化して選挙でも得たものがナチスのようになる
権力が暴走するのである、原発事故だって権力を持ったものが起こしものだからである
だから権力を抑える監視することがどうするかか課題なのである、でも一旦権力を持つとその権力の悪しき利用が常にありそれを規制できない、それは歴史的にもそうでありそれが政治の一番の課題なのである
いづれにしろ宗教でもそうだが権力の危険なのはそれが常に権力自体が暴走する
それを制御できなくなることである、図のように必ず権力によって国民全体でも被害を及んでくる
オウムでも危険でも暴力装置化して権力を持つようにもなる危険があった
それでマスコミでも恐れて何も言えなくなっていたのである
マスコミは権力を監視するものとしてあってもそうではなかった
それは原発事故でも証明された、800億円もの金が電事連からでていたからである
宣伝費がでていて東電から朝日新聞でも全部新聞社では中国に招待されたとき事故になったのである
戦争中は朝日新聞が戦争を一番あおったとしている、それも権力側についた方が得だと判断したからである、だからこの世では政治では常に権力をどう操作するかか問題になる
でも結局人間ではできない、それで聖書でもみどり子に治めさせよとかまた老子だと治めずして治めるとか議員はくじ引きで選んだ方が公正になるとかなる
それだけ権力を持つと人間は危険なものになるからである
だからいかに権力を監視するかが制御するかが問題になるのができないのである
それは民主主義でもできない、なぜならナチスは選挙で選ばれたからである
民主主義だとすべて数で決まるのだから大衆化して数を集めようとしたのである
大衆社会になると大衆が権力を持つ、だからそもそも権力を制御することは不可能だともなる、人間はそもそもこの世を治めることが不可能だともなってしまう
だから神の国はこの世に成ることはない、神が治める神の国にしかないとなるのである
そこに人間社会の絶望がある、それは人間は権力を得ることを切望して争いが絶えないからである、それは民主主義社会でもそうだった、今度は大衆が数となり権力を持つようになったからである
それを制御できなくなることである、図のように必ず権力によって国民全体でも被害を及んでくる
オウムでも危険でも暴力装置化して権力を持つようにもなる危険があった
それでマスコミでも恐れて何も言えなくなっていたのである
マスコミは権力を監視するものとしてあってもそうではなかった
それは原発事故でも証明された、800億円もの金が電事連からでていたからである
宣伝費がでていて東電から朝日新聞でも全部新聞社では中国に招待されたとき事故になったのである
戦争中は朝日新聞が戦争を一番あおったとしている、それも権力側についた方が得だと判断したからである、だからこの世では政治では常に権力をどう操作するかか問題になる
でも結局人間ではできない、それで聖書でもみどり子に治めさせよとかまた老子だと治めずして治めるとか議員はくじ引きで選んだ方が公正になるとかなる
それだけ権力を持つと人間は危険なものになるからである
だからいかに権力を監視するかが制御するかが問題になるのができないのである
それは民主主義でもできない、なぜならナチスは選挙で選ばれたからである
民主主義だとすべて数で決まるのだから大衆化して数を集めようとしたのである
大衆社会になると大衆が権力を持つ、だからそもそも権力を制御することは不可能だともなる、人間はそもそもこの世を治めることが不可能だともなってしまう
だから神の国はこの世に成ることはない、神が治める神の国にしかないとなるのである
そこに人間社会の絶望がある、それは人間は権力を得ることを切望して争いが絶えないからである、それは民主主義社会でもそうだった、今度は大衆が数となり権力を持つようになったからである