2022年10月16日

愛とか慈悲が一番実行されにくい (宗教団体でもそんなものはない)


愛とか慈悲が一番実行されにくい

(宗教団体でもそんなものはない)

宗教というと愛と慈悲を説く、でもこのことを実行している宗教団体でも宗教家でもいるのかとなる
カルト教団で共通していることは会員を数としてしか見ていない、数として増やして勢力化する、創価なら一票とみて政治化して権力を得ることしか考えていない
そもそも政治家にしろその人達は自分のために働くのであり選挙の時は頭を下げても選挙の時だけだと言っている
選挙自体が利権を得るために議員に成りたい人がいてまた利権を得たいために投票する方もある、それが基本的に政治である
第一党派になるとき我が党のためということは実際は我が家族のためとかになる
我が家族のためが我が党のためにもなる、創価でも議員に成っていた人はそうだった
我が家族の御利益が我が党のためになっていたのである
そもそも党派とはそういうものである、宗教でも党派化するとそうなる
宗教でもそうして党派争いになり戦争にもなる

人間は基本として家族愛がありその延長として集団の愛がある、党派愛がある
だから宗教で説く愛とか慈悲とかはない、愛でもいろいろある、家族でも親子の愛があり夫婦の愛があり兄弟愛がありまた男女の恋愛もある
だから愛というときキリストが説いた愛とかシャカが説いた慈悲とかはない
それがどういうものかもわからないだろう
それは家族を越えたものでありまた男女の恋愛とかでもないし党派愛で仲間愛でもない
だからこの世にある愛とかはそういうものではない
それが宗教団体でもそこにあるのは家族愛であり党派愛とか団体愛とかなりその仲間にならないものは排斥される、ではなぜそれが宗教なのかとなる
そういう根本的なことが理解できないし当然実行もされていないのである

家族愛とかは基本にあり否定できない、それが悪いともならない、でもそれが本当のキリストが説いた愛なのかシャカの説いた慈悲なのかとなるとそうではない
家族愛は団体愛、党派愛へと拡大する、侍が御家とかあり有力な家が拡大したものが一つの集団となり他の団体と戦うことになるからだ
それはヨ−ロッパでも外国でも同じだった、ハウスブルク家がヨ−ロッパを支配したというときそうである、これも御家だったのである

例えばキリスト教だと当時ユダヤ人がいてユダヤ民族主義がやはりあった、でもそれにキリストは組みしなかった、民族を越えた愛を説いたのである
良きサマリア人の例えでもそうである、多民族でも平等の愛を説いたのである
なぜ民族と民族の争そいが熾烈になるのか、そこに平和がないのか、今起きているウクライナ人とロシア人の争そいは民族争いでもある、でももともとウクライナ人は日本だと沖縄のようなものだという言う人がいた、沖縄人は日本人であるが沖縄人はまた別だともなる、ロシア人と沖縄人はおそらく言葉にしてその顔にしてもたいして変わりなく見分けがつかないとなるからだ
大陸ではとにかく多様な民族がいてその民族争いが熾烈なのである
だからジェノサイドがある、互いに容赦なく殺し合う、もう相手が人間でもないとなる
中国では敵の墓を暴いてもまで罰するというときそうである
日本のように敵味方塚などないのである、日本は大陸と違って民族がすでに古代で融合していたのである、同じ日本人になっていたのである

ともかく宗教の要に愛とか慈悲がある、でもこれが何なのか誤解しているし実行できない
そもそもなぜ宗教団体であってもそれはキリストが説いた愛とかシャカの説いた愛とは違っている、誰もそんなことを実行している人はないないのである
確かにそこに党派愛はある、仲間にあれば愛すことがある、でも仲間に入らなければ敵ともなり徹底的に戦い殺し合いとまでなる、そのことで疑問も感じないのである
地獄に落ちろとか罰当たるとして大集団で仲間にならないのも攻撃してくるのである
それが宗教の名のもとに正しいとして行われるのである
こうして国と国でも民族と民族でも争いが絶えることがなく最後はハルマゲドンの争そいとなり人類滅亡するともなる

では一体愛とか慈悲がどこにあるのか、誰かそんなこと実行できなるのかとなる
人間の日々の活動が愛と慈悲など関係ない、利益を得るために働ているのでありそこに愛とか慈悲など関係ないのである、むしろ利益を得るためには何でもするとなる
相手を騙してもでも利益を得るというのが人間社会である
損して相手に尽くすなどありえないのである、別にそれでとがめる人もない、だますとなればまた別だが働いて利益をあげるのは正当な活動なのである

ただ愛というときどこでも必要なことは確かである、私の母は継母に育てられていじめられた、その継母はなぜ愛がもてなかったのか?
自分の血のつながらない子供だったからである、それで弁当を作って与えられたがそれを残した時、俺の作ったものを実の母親でないから食べられないのかとその弁当を投げて怒った、その女性は余りにも気が強いということでそうなった
これも別に愛を持てば良かっただけのことだが実の子ではないから愛を持てなかったのである、ただ最後に死ぬときになり悪かったなと言って死んだのである

愛と言う時何かむずかしい負担になることでもない、別に血のつながらない子供でも愛したら実の親子と同じになる、むしろその子供は実の親子でないのに愛しててくれたからと感謝するのである、かえって実の親子でも何も感謝しない子もいるからである
だから家族愛でもいろいろある、家族でさえ愛し合わない人も普通にいる
その親は一人娘をかわいがったが親が病気になり介護になったとき冷たい仕打ちをしている、何か金をあづけたのだが出したくないのである
別に介護にもなっていない、一週間に一回くらい世話に来ているだけである
つまり愛というときまた家族では当然だとしてもなかなかそれすら実行されないことがあるのだ
何か血のつながらないということで父親でも母親でも愛さないということがある
私の家族でもそうだったのである、そこは複雑であり簡単には言えない事情がある
ただそういうことは家族でもある、だから必ずしも特殊なことではないのである


そもそも愛とは何かなのかということがわかりにくいのである、ただキリストとかシャカの慈悲とかを実行している人がいるのかとなる
それは別に血縁とか党派愛とか民族愛とも違ったものである、それは人類的な愛だとなる慈悲だとなる、だからキリストの愛はユダヤ人の中で民族愛の集団では受けいれられなかったとなる、シャカでも仏教を受けいれたのはインドではなくその周辺国だったとなる
それは民族宗教ではないからである、ナショナリズムとは違っていたからである
人類への普遍的な愛であり慈悲である、だからかえって人道というのが愛になる
人道だと宗派とは関係ない、イスラム教だから親切にしない助けないともならないからである、でも宗教でも違うと血で血を争うものとなっていたのである
かえって宗教戦争は熾烈なり神の名の下に敵を残酷に殺したとなる、それも神の名のもとにそうなったのである、宗派とか団体だとそうなりやすい、仲間にならないものは人としても扱わないとなっているのだ

だからこの世の中宗教自体が不可解だとなる、これだけの人がキリスト教徒であり仏教徒でありイスラム教徒になっていもそこで愛とか慈悲とか何かそうしたものが実行されているのかとなるとされないない、そんな人がいるのかとなるからだ
そこで実行されいてるのは民族愛であり集団愛であり仲間愛であり党派愛である
それは本来の愛とは違ったものだけど実際は集団化して組織化したものがそうなっているそれは世界中で共通しているのである、これはエゴの延長なのである
でもこの世の中は何らかの集団に属さない人はいない、その人は人間でもないとなってしまうのである、だからキリストはどの団体に属さないからユダヤ民族からも排斥されて十字架で死んだともなる、党派を否定したからである

いづれにしろ人間は愛は不可欠である、でもその愛が実行されない、医者などでも愛が必要である、今回どうしてその女性が脳梗塞になったのか、その兆候があっても医者でもわからなかったのか?それはその女性を親身になって診ていなかった
いろいろな症状を総合すれば医者ならこれは脳梗塞の兆候ではないかとか気がついたかもしれない、そこに愛が欠けていたのかもしれない
私自身もその人を親身にみていないからただいつもの愚痴を言っているのだとしてただうざいとまでなっていたのである
家族だったら親身になり相手をみる、どこが悪いかとか別に専門知識がなくても心配するその愛には利害は関係していない、だからなぜ一人暮らしの人が早死にするかとなると身近に家族がない、妻がないとなるとその体でも心配する人がいないからである
何か体でも悪くなっても心配する人もいないのである


それは自分自身のことだった、家族が死んで誰も心配する者がいなくなった結果さんざんな目にあったのである、自分の所に来たのは金目当ての人しかいなかったからである
相手にとって自分の病気などどうでもいい、金をとればいいとしかなかったからである
これは医者でも患者をそうみるだろう、いらない薬でものませたりいらない治療をして金稼ぐこともある、どうしても医者でも利益をあげることが第一になるからだ
人間社会はそれから逃れることができないのである
だから一概にそれがすべて悪いとはならない、でも医者となるとそこに愛が必要になる
それで医は仁術だというときそういうことだった、つまり医は算術ではなく仁術ということは何かしらそこに愛の作用が必要とすることだとなる

でも医者にしても相手は家族でもない、多数の一人にしかすぎないのである
とにかく数を多くみるというとき愛など実行されないのである
だから議員ですら病院で番号で呼ばれて怒ったということにもなる
大勢の一人にすぎない、家族でもない人に親身になり多数を診ることなどてきないのである、それはどこでもそうである、多数を相手にするところでは愛はありえないと思う
だから大衆を愛するなどありえないと思う、大衆というのはもう人間ではない、ただ数としてあるだけだとなる、そして数として処理されるだけだとなる

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