2022年10月10日

会津がなぜ福島県で一番古い場所なのか (日本海側が先に開けたためー船の交通から見た歴史)


会津がなぜ福島県で一番古い場所なのか

(日本海側が先に開けたためー船の交通から見た歴史)

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10人くらい乗った船の絵が南相馬市鹿島区の寺内古墳から発見された
この地域まで船が使われていた、それも結構大きな船だったのである


大毘古命は先の命のまにまに、高志国にまかり行きき。ここに東の方より遣はさえし建沼河別、その父大毘古命と共に相津に往き遭ひき。かれ、そこを相津と謂ふ。

(現代語訳)
ところでオホビコノ命は、先の詔に従って越国の平定に下って行った。ところが東方に遣わされたタケヌナカハワケは、その父のオホビコノ命と会津で行き会った。そこでそこを会津というのである。


何か錯覚しやすいのは時間軸で見ることなのである、例えば江戸時代であれば元号があるその後先を間違うのである、元禄時代とか幕末となると天保とかあるが離れていると違ったものとみる、でも江戸時代は間違い安いのである、元号でも十年くらいで終わりになったりするからである
だから昭和があり平成があり令和がある、今なら時代を間違えない、昭和の次は平成だとなる、でも昭和は戦前もあるから戦争を経験した世代と戦後を生きた人達はまるで違った社会を生きたのである、戦争のことは余りにも異常なことだから戦後生まれはいくら聞かされても理解しにくいのである
それでも親から戦争のことを聞いた人がいるから団塊の世代とまた直接話しも聴くことがない人の差も大きくなるのである

それに比べて歴史を見る時必ず地理からみる、地理は変化していない、だから地理から見る歴史もむずかしいにしろ変化しないからわかりやすい、川であれ山であれ変わらないからである、この時代順で誤解しているのは会津でもそうである
太平洋側から見ると会津は福島県でも遠い、そして会津は遅れた地域のようにも見る
でも会津は福島県では一番古いのである

大毘古命は先の命のまにまに、高志国にまかり行きき。ここに東の方より遣はさえし建沼河別、その父大毘古命と共に相津に往き遭ひき。かれ、そこを相津と謂ふ。

(現代語訳)
ところでオホビコノ命は、先の詔に従って越国の平定に下って行った。ところが東方に遣わされたタケヌナカハワケは、その父のオホビコノ命と会津で行き会った。そこでそこを会津というのである。古事記

会津嶺の 国をさ遠み 逢わなはば 偲びにせもと 紐結ばさね

この歌で国(くに)として自覚されていたのは福島県では会津だけである
そして大塚山古墳には三角神獣鏡が唯一東北で発見されている、これは吉備で発見されたものと同はんであり吉備国が関係していたとなる

ではなぜ会津は古い場所なのか?

それは日本海側が古代から船で交通があったからである、見逃されているのは日本海側が先に開けたということである、奈良とかの大和からの進出も太平洋側より早かったとなるそれは日本海側が冬をのぞいて比較的穏やかな海だったから交通に適していたからである

●船が古代に交通路になり大きな力を持った

阿倍氏は古くから越・北陸道方面の計略で活躍した氏族である。複姓が多く見られ、阿倍引田臣もその一つ。引田臣の性格については、比羅夫の活動にも関連して二説ある。一つは中央豪族である阿倍氏の一支族とするもの、もう一つは越国の地方豪族とするものである

斉明天皇4年(658年)4月に船軍180隻を率いて蝦夷を討ち、飽田・渟代二郡の蝦夷を降伏させる。降伏した蝦夷の酋長・恩荷に小乙上の冠位を与えるとともに、渟代・津軽二郡の郡領に定めた。また、有間浜で渡島の蝦夷を饗応している

これで安倍氏の遠征であった、高志の国、越の国、今の富山県とか新潟県とかの地域の支配者だったのだから比較的距離的にも短いから行けたとなる
地理からみれば出雲が大和王権と互角の地位にもあったのは鳥取とか島根は韓半島に近いからである、そこで国引き神話が生まれた、日本海側は力を持ったのは韓半島に近い地理的条件でそうなった、そして大和王権と出雲は争った、国譲り神話が生まれた
そして諏訪神社が多いのタケミナカタを祀っているのは争いで敗れたため東北地方に逃れたためだとしている、そして東北弁と島根県の方言が似ているというのもそのためだとしている

ここからもわかるように日本海側が時代的に先であり太平洋側は遅れて大和王権に組み入れられたのである、それは太平洋側が海が荒くて航行できないことにあった
それでも太平洋側でもヤマトタケルの東征で東北の沿岸に進出した神話が残っているのはやはり当時は森が多く道がないので船が交通の手段になっていたのである

日本武尊は上総(かみつふさ)より転じて、陸奥国みちのくにに入られた。そのとき、大きな鏡を船に掲げて、海路をとって葦浦あしのうらを廻り、玉浦を横切って蝦夷(えみし)の支配地に入られた。蝦夷の首領島津神(しまつかみ・国津神(くにつかみたち)が、竹水門(たけのみなと)に集まって防ごうとしていた。しかし、遥かに王船を見て、その威勢に恐れて、心中勝てそうにないと思って、すべての弓矢を捨てて、仰ぎ拝んで、「君のお顔を拝見すると、人よりすぐれておられます。きっと神でありましょう

この竹水門が南相馬市の原町区らしいとなる、多珂神社(たか)とかあり竹は高らしいからだ、そこには海側に大きな桜井古墳があるからだ、また玉浦だとうい説もある
そして南相馬市だと原町区から小高区にかけて多数の20くらいの綿津見神社がある
おそらくこの遠征の物語は海人族の安曇氏系統の人達の移住に由来しているのかもしれない、こんなに多いということはそうなる
つまりこの辺までは大和王権の支配地域として早い時期に組み入れられた
そして

●真野の草原と陸奥磐城国は黒潮と親潮の交わる南国的地域

みちのくの真野の草原遠けれど面影にして見ゆというものを 笠女郎

この歌は自然境界でもあり政治的境界ともなったのである、草原(かやはら)は地名であり萱のことではないのである

なぜなら磐城に朽ちた大船のことが語られているから磐城から辺りだと浦が多かったから入江になっていたからそこに休み休み船で来たとも思われる

祭神は住吉大神(底筒男命・中筒男命・表筒男命)および神功皇后の四座。A航海守護神とする信仰が最もよく知られる。B同様の航海守護神である宗像大神が宗像氏の氏神であるのに対し、住吉大神は特定氏族の氏神ではないと考えられている

軽野の東、大海の浜辺に、流れ着いた大船があって、長さは十五丈、内幅は一丈余りである。朽ち砕かれて砂に埋もれ、今もなお残っている。淡海の世に国秤(くにまぎ)に遣わそうとして、陸奥国石城の船大工に大船を作らせたところ、ここまで来て岸に着き、ただちに壊れたという。

古代造船の建材としてはクスノキが重要です。クスノキは暖地系の常緑高木で、大きいものは20メートル以上。いわき市内にはクスノキの大木が多く、理学博士の湯澤陽一によれば、その自生北限はいわき市小浜町であるとされています

楠(くすのき)は南の木である、漢字でもそうなっている、磐城は今でも親潮と黒潮の交わる地点である、それで波立海岸で熱帯魚を探していた千葉県の人がいたのである
小さいものだが熱帯魚が来るということは黒潮に乗ってきたとなる
いわき市は南国的な場所なのである、そして南相馬市の鹿島区の海老浜には自生した
シャリンバイが南限の地とされている、この花は奄美大島に自生していて南限の地とされている、またスダシイ神社もありこれも沖縄の山原の原生林に自生しているのである

ここで日本海側と比べて太平洋側は船の航行には適していない、でも古代だと最初は船が交通の最適な手段となる、陸には道がない、森とか山に遮られて歩くことも容易ではないからである、すると海人族の安曇氏系統が船の操作ができて南相馬市の原町区に進出してきたとなる、そこに大きな桜井古墳が作られたとなるのである
これは物部系とか安曇氏系統が関係していたともみる

遥かに王船を見て、その威勢に恐れて、心中勝てそうにないと思って、すべての弓矢を捨てて、仰ぎ拝んで

こういうことは技術力で支配することに通じている、太平洋戦争でもアメリカに原爆を落とされて日本が降伏したのとにている、科学技術力によって権力を持つことは歴史にある明治維新の黒船でもそうである、大航海時代でも船が大きな力となったからである
だから船というものが世界を変えたということを知らねばならない

●日本海側が先に開けたからそこから歴史も見る

ともかく時間軸で空間軸で見ることが歴史では不可欠である、でも時間軸だとわかりにくいのである、空間軸だと韓半島に出雲は近いから当然その延長として越の国がありそこから今度は阿賀野川があり会津に大和王権の勢力が伸びてきた
それで会津は福島県でも一番古い地域だとなる
だから歴史を見る場合交通も大事なのである、その交通は海の交通と川の交通がある
大陸だと川が長大だからそこが道ともなったのである
ただ時代が変わると遅れた地域となるのは交通が変わりそれで港でも栄えていても衰退する、それは北前船が明治になり鉄道ができて廃れた結果としてそうなったのである
北前船はやはり日本海側を青森から山形県の最上川まで通じて交通が盛んになり紅花(べにばな)が作られて京都に送られて加工されて口紅などの化粧に使われたのである

なぜ紅花の大産地が形成されたのでしょうか。気候・土壌が栽培に適していたということもありますが、山形の他に、奥州福島・奥州仙台・奥州三春・西国肥後・尾張・遠江・相模などで生産されていましたので、気候・土壌が決定的な要因だったというわけではなさそうです。むしろ、最上川の舟運で山形と京都や大阪が深く結びつき、紅花商人たちが活躍したことが、産地の拡大に繋がったと考えたほうがいいかもしれません。

この指摘は重要である、なぜなら交通があってまた消費地があって経済も発展することを示唆しているからである、京都は消費地でありそれと最上川が結びついて一大生産地となったのである、江戸でもそうである、江戸は巨大な消費地であり参勤交代があり発展したとなるからだ
でも明治以降は中国産とかの紅花が入り衰退したのである

福島県でわかりにくいのは南相馬市の鹿島区に浮田国造が置かれたことである
これは奈良の中央政権から派遣され宮っ子であり官吏のような人だった
その系統が毛野氏になっている、この毛野氏は栃木県とか群馬県とかを支配地域としていた、地盤としていた、ではなぜ毛野氏が福島県の浜通り進出したのかとなる
それは最初に栄えたのは交通が便利な日本海側であったからなのだ
ただ毛野氏となると山側だからそうなのかとなる、でも茨城県は遅れて大和王権に組み入れられたのである、とにかく日本海側が日本の歴史では先んじて発展していたとなる
そして会津は日本海側と越の国と関係していて早くから奈良に知られた場所にもなっていた

島根、鳥取⇒越の国⇒(毛野)⇒会津

毛野は浜通りの南相馬市の浮田国造の祖となっているのである

吉弥侯部氏(きみこべうじ、姓は不明)で、上毛野氏、下毛野氏、針間鴨国造などと同族神護景雲元年(767年)7月19日には宇多郡人の外正六位上勳十等吉弥侯部石麻呂が上毛野陸奥公を賜姓されている

つまり交通から見ると京都大阪があり瀬戸内海から日本海をめぐる航路があり日本海側が先に発展した、日本海側から順序として歴史を見る必要がある
ただ毛野氏というのは栃木県とか群馬県でありそこは山国であるから謎が残る

ただその後も越の国は上杉謙信が出て戦国時代は大きな勢力だったのである
一時は上杉が山形県の米沢に拠点を置いた上杉氏が福島県全体を支配したのである
それで丸森の森林資源の木材をめぐって争ったのが伊達氏と上杉氏と相馬藩だったのである、三つ巴の資源をめぐる争いかあった
上杉とは今の石川県とか富山県と新潟県を勢力圏としていたのである
ということは越の国は戦国時代でも大きな力をもっていたとなる
そこが誤解する、なぜなら日本海側は遅れた地域に見てしまうからである
それは交通の変化でそうなったのである

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福島県の大部分が上杉氏の領地になった時があった
だからこそ丸森で森林資源の木材の取り合いになって争いになった










posted by 天華 at 09:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)
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